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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 夏休み真っ只中です。せっかく時間もたっぷりあるのだから何かしようと思うのですがどうもやる気が出ないもんです。家にひきこもりがちだからなんでしょうか。
 物事に対するやる気は色んなものに左右されます。同じ部屋にいるときでも、部屋の明るさ、温度、外の天気といった外の要因によって気分はずいぶん違います。経験からいうと外の要因でやる気は変わっても、実際にやることがうまくいくかどうかはあまり変わらないものであるので、結局どんな環境でもやる気出さなきゃ駄目だって話になるのですが、やはりやる気が起こらないときはどうしても起こらないものです。
 ところで外の要因と言えば、トイレに入ると妙に頭が回るというのをよく聞きます。私もこの現象にはたまにお世話になります。トイレに入るとリラックスして、落ち着いて考えることができるから頭がよく回るらしいのですが、私はもう一つ原因があると思います。それは、トイレには限られた時間しかいられないということです。勿論普通に用を足す程度の時間はありましょう。しかしあんまり長くいると出るときちょっと恥ずかしい気持ちになりますね。だからトイレの中はリラックスするけど一方で時間に追いたてられてもいるのです。その時何かものを考えるとどうでしょうか。孝太郎の原稿だって締切前になると急に筆が進みます。それと一緒で頭もよく働き、いい考えが浮かぶんじゃないでしょうか。頭が回り出すと、スピーディーな心地よさを感じます。トイレの中というゆったりした空間と全く似つかわしくない感覚が現れるのです。私はそういう風に感じることがあるのですがどうでしょう。
 時間に追いたてられないと頭がちゃんと働こうとしないというのは悲しい性です。私も普段より一層やる気を起こせずにいます。しかし身近なところにやる気を引き出すきっかけはあるようなので、それをうまく使って目を覚ましていこうと思います。

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 1週間程前、宮崎駿監督の某映画…いや、伏せる必要もないか…『崖の上のポニョ』を友人と一緒に見に行った。ストーリーは公式サイトにもあるように、まさしく、『海に棲むさかなの子ポニョが、人間の宗介と一緒に我儘をつらぬき通す物語。』であった。私は、こういった作品に関して、感想を述べるのは、極端に苦手なので(なんだかあまり言葉にしたくないというか、言葉にできないというか。)、ここでは特に何がどうだったと詳しく言うつもりはない。映画から受けた印象を敢えて言葉にするなら、無駄のないシンプルな話だったな、ということぐらいだろうか。
 ここでは、決して悪い意味ではなく、むしろ良い意味で「シンプル」という言葉を使っているのだが、だからこそ、映画の結末は拍子抜けするくらいだった。胸の中にあるのは、ほのぼのとした気持ちぐらいのものだった。…その筈だったのだが、エンディングに入り、スタッフロールが流れた瞬間、溢れ出そうとする涙。そこまで激しい衝動ではなかったので、目を潤ませるにとどまったが、何故、このタイミングで自分は涙をこらえているのか、と頭の中は疑問符で一杯だった。
泣きたくなるとき。涙が思わず溢れそうになるとき。不確かであっても、ぼんやりとその原因は頭の片隅にあったり、なんとなく推測できたりするものだ。少なくとも、今までの私はそうであったはずだ。しかし、このときばかりは、いくら考えてみても、ああ、これが原因かもしれないと少しでも思えることが頭に浮かばなかった。何を感じて、自分が涙を浮かべているのかさえわからなかった。

 いつか、この涙の意味がわかる日がくるのだろうか。それとも、やっぱり訳の分からないままなのだろうか。
 もう少し月日が流れてから、もう一度見たいと思った映画だった。

「箸が転んでもおかしい年頃」とはよく言ったものだが、少し前まではその感覚は実に共感できるものだった。箸どころではない、本当に取るに足らないことがおかしくて仕方なかった。見慣れたものでも、その時の気分が違えば私の目には真新しく映り、逆に知らないものやことでも懐かしい愛しさを感じることができていた。
 
しかし最近は、その感覚が徐々に失われていることに気づかされる日々だ。私の知る季節の移り変わりも、はや20周目だ。その変化にふと目を留めることも少なくなった。信じられないような偶然や作り話の世界にこころを動かされても、その感動はそのとき1回限りだ。思い出し笑いなんて、すいぶんご無沙汰だ。まだまだ若いはずなのに、急に年寄りくさくなってしまったなぁ。
 
生活とはなんとも平凡だ!旅へ出ても、誰かに会っても、世界は一つの平面上に並べられているに過ぎない。その世界から消えさる「死」ですらきっと平凡だ。宗教だって倫理だって、平面上の平凡な生き物が作り出した。この世に崇高なものがあるのか?そんなことを考えながら日々をすごしている。
 
きっと今の私はこの平凡さに退屈しているのだろう。自ら動き出すことは無いが、この平凡が誰かによって打開されることを心のどこかで期待している。やはりまだまだ私は青いのだな。
 
平凡もまたいい。平凡に甘んじるのではなく平凡を楽しむことができる大人になろう。
 このところ夕立の降る日が多い気がする。突然にやってきてふと気がつけば止んでいる。その刹那性が我々の心をつかみ、いろいろな考えをめぐらすきっかけを与えるのかもしれない。私は「夕立」を読んでそのような思いを新たにし、筆者の感受性に感服したのだった。
 とくに、夕立の音に関して、時間の流れを変える性質があることを指摘する部分が印象に残った。友人との会話が切り替わるというのも言われてみればその通りだし、自分ひとりでいるときも、一息ついたり何かに取り掛かったりするきっかけになることがしばしばだ。
 ひとりで部屋にいるときは、わざわざ窓を開けることもなく、ただ夕立の音のみを聞く。そうすると、街の音がする、という気がしてくる。雨粒は、無差別にいろいろなものを叩いては散る。私のうちの屋根瓦、隣のガレージのトタン屋根、道路のアスファルト、マンホール、街路樹、野良犬の背中……。すべてがひとつになって聞こえてくるのである。
 雨は、天空からの水の落下というそれだけの現象だけれど、地上に何が待ち構えているかによって奏でる音楽は変わってくるはずだ。この夕立が隣町に去って行ったら、そこではどんな音がするのだろう。ヴェネツィアに降る雨はどんな音がするのだろう。ジャングルの雨はどんな音がするのだろう。
 夏の夕立は確かに憎まれっ子かもしれない。しかし、梅雨時とか冬のはじめの雨と違って、笑い飛ばせる程度の憎まれっ子である。突然降られてびしょ濡れになってもご愛敬。体を乾かしながら、自分の街の音に耳を傾けてみるのも一興である。
  火曜日の記事を読んでいて、昔は三時のおやつ、五時のおやつ、六時の味噌汁を欠かさず食っていてデブってたことを思い出しました。
六、七年経つのですが体重は身長ほど変わってません。いや身長だって変わってねぇけどさ。
  それはいいとして、今は昔ほどガツガツ食ってません。それは勿論年をとるにつれて身の丈に合った量というものが分かってきたからってのもあるのでしょうが、それよりも写真で自分の姿を見たときからか、体重計に乗っかったときからか、今のままデブってるのは嫌だって思いが芽生えたのが何よりの原因だったのでしょう。自分は過剰な食欲に身を委ねてはいけないのだとわかったのです。この失敗によって、いつもいつも腹一杯食っててはいけないんだなという思いが心のどこかに度々現れるようになりました。そして段々食う量は減っていきました。やがて減った量でも満足できるようになり、体格も普通になっていきました。食べる量を自分の体に合わせることに成功したという点で、私は失敗によって成長したのです。
  自分の記憶をたどってみるとなぜか失敗ばかりが浮かんでくるものです。確かに今までしでかした失敗は数多いですが、かといって全然成功したことがないわけでもないはずです。ではなぜ失敗ばかりが浮かぶのかというと、失敗の方が頭に残りやすいからなんでしょうね。で何で残りやすいのかというと、失敗によって生まれた特徴や考え方が今の自分にも残っているからではないかと思うのです。しかもそうした特徴や考え方というのは、失敗を繰り返さないようにと努力した形跡、あるいは結果を持つので、どちらかというと自分の長所だと言えるものが多いのではないでしょうか。無論記憶に残っている過去の失敗のすべてに努力の跡などが見られるわけではないけれど、それでも今の自分とつながるものは多いように思います。
  自分の失敗談を自慢話のように言うのは単なる愚痴で、それはそれで面白いものですが、今の自分の考え方などがそもそもどこからきたんだろうかとか、失敗が失敗のままになってないかなーとか、たまには考えてみてもいいと思いました。

 夕立の非日常性は素敵なものだなと最近よく思います。聴覚視覚,時折嗅覚触覚で何か特別な印象を受けます。聴覚は雷と,急緩ついた豪雨の音。視覚はいきなりの暗幕としての雷雲と,夕焼けの色した薄い雲の混在。嗅覚というのは一瞬だけ降った後の雨の匂い。触覚は傘が無かった時は特に実感。味覚は無いのでしょうか。夕立の味。個人的には梅のゼリーのような味ではないかと思ったのですが。

 

 私は特に視覚の点が好みです。夕立というとやはりいい印象を持つ人はまれで,うっかり対策を怠った日にはそりゃあもう悲惨な有様になるわけで,私も何度洗濯物や自分自身我が濡鼠になったことか分かりません。しかしふと空を見やった時に群青と紅蓮…というと大げさではありますが,まあそれくらいの色合いが見えた時から,その期待もあって夕立というものが好きになっていきました。加えて,中学の時に一度だけ見たのですが,雨が上がった後に夕日が濡れた地面を照らして,丁度うまく光が反射して視界全てが黄金に染まった景色が忘れられません。そこまで偶然な情景でなくとも暗雲に塞がれた天気の後に突き抜けるような光が差し込む様子は,夕立ならではと言えるでしょう。

 

 雷の音。ひっくり返るような豪雨の音。これらも,それまで忙しくしていた手を止めてちょっと見やったり,友人との話の流れが変わったり。何かしら平凡ではなくなるきっかけになっているように感じます。閉塞感をある意味打破してくれるほどの勢い(但し,三日も続くと逆に閉塞する)が夕立にはあり,迷惑だなどと思わないでちょっと見やってほしいものです。

 北京五輪の開会式の入場行進を見ながらこれを書いています。〆切ぎりぎりです。

 入場する国の名前が、まずフランス語と英語で(IOCの公用語であるため)読まれて、最後に開催国の言語で読まれるわけでありますけれども、欧米の都市が開催国だったりすると同じような発音が三回連呼されるばかりで実にシュールです。
 そこんところ今年は中国語なので、中国語ではどんな発音になるのだろうという楽しみも持ちつつ入場行進を見ております。
 中国語の発音、それから選手団代表の持っているプラカードに書いてある文字を見て思うのは、どの文字がどんな発音をしているのかが非常に分かりやすいと言うこと。例えば日本語だと「は」と書いても「ふぁ」と書いても音の長さは変わらないけれども文字数は違っているし、朝鮮語なんかは中国語に忠実なふりをして、パッチムなんていう発音されない部分があったり、それが前後関係によって発音されたりと忙しいのです。中国語は一文字一音節!長母音と短母音の区別もない!(あんまり詳しくないので多分ですが)実に簡潔で合理的な文字体系。これって案外珍しいことなのです。
 中国文化の特異性が開会式ひとつ見てもいろいろと分かるのでした。

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