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私は、大学に通うにしても、バイトに行くにしても、長時間電車に乗っていることが多い。読みたい本があったり、何かやらなければならない課題があったりする場合を除いて、電車の中ですることといったら、空想に耽るか、考え事をするか、寝るか、の三択である。
電車の中で、空想に耽っていると、思いがけず、自分で、おお、と思うようなことをひらめくことがある。これは創作に活かすことができるぞ。帰ったら形にしてみるかな。――そんなことを思いながら自宅に戻って、いざ形にしようと思っても、ひらめいたときは一種の感動のようなものさえ覚えたはずのことが、ちっとも頭に浮かばなくなっている。
電車の中で、考え事をしていると、自分でも納得のいく結論に到達することがある。ああ、うん。成る程。これからの自分の教訓になるな。――そう思ったはずなのに、次の日の同じ時間、同じ電車の中で、同じことをぐるぐる考えていたりする。
電車の中で、寝ていると、眠りが浅いからか夢をよく見る。夢というのは、大抵が、因果関係がめちゃくちゃなものなので、話の筋もなにもあったものではないが、時折、物事と物事が、自分が普段考えているときには思いもつかないような結びつきを見せて、面白い、と感じることがある。ああ、これももしかしたら、創作の種になるかもしれないな。――そんなことを思いながら、自分の意識がはっきりしてくる頃には、ただ面白かったという自分の感情しか残っておらず、肝心の夢の内容は全く思い出せない。
以上が、一瞬前の自分は、もう自分ではないと感じるときである。どれもこれも、自分で考え、思い、処理したはずのことであるのに、ちっとも思い出せなくて歯痒い。一瞬前の自分の心、頭にあったものが、他人のそれと同じように、全くわからなくなる。
ある日、いつ書いたかのかもわからない自分の走り書きを見つけた。読んでみると、過去の自分が確かに書いたことであるのに、他人の考えを知ることのできたときのような、新鮮さがあった。一瞬一瞬の自分の考え、ひらめき、思い。自分の中で、思い出せるのはほんの一握りだ。しかも、思いついたそのときの、そのままの形で、自分の中に留めているつもりでも、時の経過と共に、それはどんどん変容していく。けれど、見つけた自分の走り書きにあった自分自身の考えは、思いついたそのときのまま、確かに残っていた。
私は、最近、鞄の中に常に小さなノートブックを忍ばせている。
私の読書量は本を携えて暇のある時には読み進める程度のもので、読書家というにはまったく程遠い。好きな作家は・・・?と問われて即答できるほど多くの本を読み込んでいるわけではない。実にお恥ずかしい限りだが。
しかし好きな雰囲気の本、というものはある。私は昔はスカッとする歴史小説を好んでいたが、今読んでいる本を(寝床に積み重ねている本たちを)眺めてみると、背伸びをした専門書・詩集・美容書など統一性がない。しかし、小説に限っていえば作者は様々だがそれらはどうも共通の雰囲気を持っている。私の好きな雰囲気というのはどうも色で表すと薄汚い茶色でどんよりした空気に包まれたものなのだ。その小説に出てくる建物は古びていて、主人公はいたって人間臭い(もしくはそれが行き過ぎて狂気と化している)、とくに大きな出来事が作中でおこるわけではない。ただじっくりと、のそのそと時間が流れていく話が多い。そして時々少しのエロスがある。しかし、それもまた無気力なエロスなのだ。
だから私の読書タイムはなんだか薄汚いしめったにおいが漂ってくる、あまり健康的なものではない。しかし、それが好きだ。
そういう世界に浸った後、ぱっと窓の外の夕焼けを見た瞬間は絶妙な気分だ。あぁ綺麗な現実だなぁ、とひしと感じるのだ。薄汚い世界はきっとすべてお話の中のことなのだ・・・なんとも馬鹿らしく卑屈な感覚だが、この現実世界と本の世界の行き来が幸せを感じる1つの手段なのだ。
さてさて、甘いものに「うっぷ」となっている時、パスタなどのご飯ものに手が伸びないかというと、そうではありません。もちろんお腹がいっぱいになっていたら物理的に仕方ないのですが、大概の場合、ケーキに飽き飽きしているところにコンソメスープを飲んだら気持ちの悪さも収まります。そしてコンソメスープの美味しさに感動します。パスタに手が伸びます。このことを考えると、甘いものは少しでいいのです、人間の体には。けれどご飯はやっぱり、十分量必要なのです、人間の体には。ご飯ものに胸が悪くなって「うっぷ」な気分になることはまあそう滅多にないでしょう。今日はそれを、身を以て体験しました。
あと、食に関してもうひとつ思うことがあるとすれば、女性の方が食欲は旺盛だなあということです。食べる量ではありません。食への執着が、男性に比べてかなり大きいような気がするのです。ダイエットが成功しにくいのも、それが一因となっているのではないかしら。
・・・なんて、遺伝子のせいにしたりして 。はは。
養老孟司講演会「河合隼雄と『まともな人』」を国際漫画ミュージアムで聴いた。心理学者・河合隼雄氏の一周忌を記念して開催されたもので、ミュージアムの館長でもある解剖学者・養老氏が鎌倉からやってきた。生で見てもやっぱり白髪がふさふさだった。
講演内容は、別に河合氏と直接関係するものではなかった。話の端々に「河合さん」という言葉は出てきたが、それはあってもなくても話の筋には問題のない「河合さん」であって、養老氏の下手なお愛想に違いなかった。あの養老氏が誰かの生前の思い出をとうとうと語るなど、そもそもあり得ない話である。
話題の中心はもっぱら、養老氏がさまざまな著作の中ですでに述べている自論のいくつかであった。その中で、自分自身の体験をもとに人の「死」について語った部分が興味深かったので、少し紹介する。
養老氏は4歳の時、父親を亡くした。何も言わなくても母以上に自分の気持ちをわかってくれる一番の理解者だったという。臨終に立ち会ったとき、周りの大人に「お父さんに“さようなら”を言いなさい」と促されたが、なぜか何も言うことができなかった。父親は一瞬静かな笑みを浮かべて、息をひきとった。泣きじゃくる姉を見て、「なぜ僕は泣かないのだろう」という妙な疑問と、「ここで泣かないのは悪いことではないのか」という罪悪感が子供心に残ったという。
学生時代も、社会に出てからも、養老氏にはひとつ苦手なことがあった。街で顔見知りの人に出会ったとき、きちんとした挨拶ができないのである。お宅の息子の態度はなっていない、と自宅に苦情がきたこともあったという。
40歳を過ぎたある日、地下鉄に乗っていた養老氏はハタと気がつく。自分が知り合いにきちんと挨拶ができないということは、大好きな父親に“さようなら”を言えなかったことと関係があるのではないか、と。そう気付いたとき、氏の目に涙があふれた。氏は低い声で語った――「私は思いました。『今、父が死んだ』と。」
「死」とは何か。それはあらかじめ決まっているものではない、人が「死」だと認めるかどうか、それが「死」の基準だ。養老氏はこう主張する。だから脳死が問題になる。あれは、生理学的な正否を問うものではない、認めるか否かという問題なのである。養老氏は4歳で直面した父の死を認めなかった、あるいは認めたくなかった。地下鉄の中で悟るまで、氏の中で父親は40年間生き続けたのである。
「もう今じゃ、生きてる人は誰も死なないと思うことにしてるんです。」と氏は笑いながら語った。「河合さんも死んだかどうかわかんないじゃないですか、きっと生きてるんですよ。それでいいじゃないですか。」
ところで教習の際一緒に乗ってもらう教習員は毎回変わるのですが、私の教習員は何故かおっちゃんが多いです。そしておっちゃん達は教習中になると、話題がないからか普段しゃべり相手があまりいないからか、決まって自分の哲学を語り出すのです。
ある日の教習員は交差点を通り過ぎるイカしたGT-Rに反応した私に対して、「車乗ってるとどうでもいいことにも目がいくようになるやろ。すると意外と色んなことに気付くのよ。車乗ると人生変わるよ。」と言いました。
自動車に人生を見い出しているとはいかにも教習員らしくかっこいいなーと思いました。自動車を操る上で習得する技術が人の考え方まで変えてしまう…何だか唯物論みたいです。では、自動車の技術を極めている教習所のおっちゃんは更に『自動車っぽい』考え方をしてるんだろうか…なんてことを考えました。自分の職業らしい考え方を持つのは一概に良いとは言えないだろうけど、面白いことだと思います。
またそれと同時に、去年私は植物をじっと観察するのに少しはまっていた時期があったのですが、その時よく観察すると無秩序に見えるものが意外に分かりやすい仕組みを持っていることを実感していたことを思い出しました。何となくおっちゃんの言ってたことと似ていたからでしょうか。
なかなか進まない教習ももう少しで終えることができそうですが、それまでに自動車の技術以外にも色々なことを思い出したり学んだりしておきたいと思ったのでした。
カレンダーのページをめくり、期待に胸躍る。8月がやってきました。
むかしむかし、アウグストゥスという偉い人がカレンダーを作り直すときに、八月に自分の名前をつけて、30日だったのを31日に増やして、そのせいで2月の日数が減っているとか何とか。だからまあ、8月31日に急いで夏休みの宿題をやっている小学生はアウグストゥスさんに感謝しなさい、なんていう小噺があるかは知りませんが、8月、長いですよね。何しましょうね。
ときに。8月のカレンダーには何か特別な印象を受けるように思います。それはまず祝日がない、ということ。左サイドには赤い数字が並んでいて、右サイドは青い数字。あと黒! そういう視覚的なわかりやすさに加えて(祝日がないのは6月も同じですから)、その色の違いが記号的意味を何も持っていなくて、赤も青も黒も全部休みという痛快さがありますね。
これを喩えるのに8月の空、というのはどうでしょう?上を見上げると抜けるような青空。遠くの空には入道雲が、青い空の美しさを引き立てています。
(実際には積乱雲というやつは夏の夕立の原因なのですけれども。「入道雲」というとなんとなくニュアンスが違いますね。)
(同じ喩えで言えば6月のカレンダーは一面の曇り空といったところでしょうか。どこまで言っても平日というのは気が塞ぎます。)
八月のカレンダーを見ていてもう一つ思うのは、8月15日の存在感。これだけ一様な8月の空の、よりにもよってど真ん中にお盆且つ終戦記念日という心理的に重い日がずっしりと構えているというこの絶対的な輝き。これはまさに太陽のあり方でしょう。生と死を象徴するように我々の頭上で活動し続ける太陽。なんだか宗教的なにおいのする話になってしまいました。