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「長崎は坂が多いことで有名ですが、さて。長崎にある坂の中で多いのは上り坂と下り坂、どちらでしょう?」
というなぞなぞを出されて、私は見事にだまされた。そして、「上り坂は同時に下り坂である」という種明かしを聞いた瞬間に、私の感覚は新しい地平を開いた。
自分の側からだけ見て物事を判断してしまっていることは案外多い。
ある地点Xからある目的地Yへ行くのに異なるルートA,Bがあって、両者の距離が等しく、Aはしばらく平坦で最後ちょっと上り坂、Bは最初上って少し下がってあとは平坦、という状況があるとき。どちらから行くのがより労力を消耗せずにすむだろうか、と考えて、いやまてよ、XからYへ行く労力はXとYの距離と高低差のみによるのではないか?と考え、それならどちらでも良いかと考えたりする。
地球上の各地点がもつ標高というステータスは各地点固有のものであり絶対的なものなのだ。
安部公房が「鞄」(新潮文庫『笑う月』所収)という短編を書いている。ある男が自分の体力とちょうどバランスの取れた重さの鞄をいつも持ち歩いていて、それはどうバランスが良いのかというと、平坦な道なら持ち運べるが、上り坂だと重くて進むことができない、というちょうどいい塩梅の鞄で、そうなると自然と彼の行動範囲が鞄によって限定されてしまうのだが、彼はむしろどこへでも行ける自由を厭って、特になんの価値もないその鞄を常に持ち歩き、鞄に限定された生活を望んでいる、という話である。
エッシャーが書いた、無限に上り続ける(或いは下り続ける)階段の絵は有名である。人間は地形の不自由を克服するために、エスカレーターだとか、文明の利器を生み出してきたのだなあ。そんなことに思いを馳せたりする。固有の高さを失った地形。地形を克服した地形。我々は上っているのだろうか。下っているのだろうか。
ポツンポツン
玄関口の大きな扉には荘厳な装飾が施され、そこをくぐり抜けると眩いばかりの白で満たされた空間が広がっている。いわゆるブランド店がどっしりと、そして少し自慢げに私の周りを取り囲んだ。白のフロアには高貴な女性の香りが立ち込めている。
百貨店のファーストフロアの印象である。受付嬢から商品の陳列に至るまで見事なまでに隙が無い。私は、いつも何気なくそこを通っている。何気ないふりをして通っているのだ。田舎くさくて、アヒルのように歩く私である。言ってみれば百貨店の気位の高さと私は月とすっぽんの関係である。その張りつめたような、透き通ったような空気に、隙だらけの自分を見透かされている気がして、どうも落ち着かないのだ。来店客もみな洗練されているし、店員に至っては輝いてさえ見える。私は異空間の中にポツリと取り残された気分だ。特に各売り場の鏡がチラチラとこちらを見てくるので、もう気が気でない。
しかし、私はその雰囲気がどうも嫌いにはなれないのだ。私の足はふらふらとそこを歩き回って、なかなかその異空間から出たがらないのだ。ポツリと取り残された感覚は、そのままの「私」が存在していることを教えてくれる。それは、畳の匂いで充満した大きなお寺の本堂の中の私に似ているし、ベルサイユ宮殿鏡の間の中の私も似ている(後者は想像の中)。「私」のアイデンティティーをしっかりと確かめられるのは、こうやって一人取り残された時なのかもしれない。
だなんて。つくづく自分の思考の楽天的な性質には、笑わされる。甘んじていてはだめだろう。そんなみすぼらしい「私」から、脱却することから始めなくては。
そうして私は履歴書を握り締めて、異空間に立ち向かったのであった。(笑)
話によると、犯人は中学校までエリートで、高校から思うようにいかなくなり、一浪して、結局好きな車の整備関係の短大に行ったのだそうだ。そして自動車工場の派遣社員に。最近になって派遣であるわが身に人員削減が迫り、何もかもが厭になって、世の中を恨んで、今回の事件に至った。簡単に言えばそんなところな話である。そしてそんなところの話に犠牲者が7人。最低な話である。
否定はしない、私は退廃的でドジで向こう見ずのおバカさんでこれといった特技もない。高校で成績が悪く、一浪したくだりなんて、あらま私のことかしら?という感じですらある。というかまあ、そんな人なんて星の数程いると思う。然れども私は人を殺しはしない。自分のことを負け組だなんだとも思わない。何故なら私は、無償の愛を親に貰っているからだ。そしてその根拠のない愛情を以て、私は自分を、ひいては人を、愛することができているからだ。
人間は、人に愛されないとすぐダメになってしまう。自分を見失ってしまう。犯人も言っていた。「彼女が欲しい」と。なのに、根拠のない愛情は、多く教育の場で、二の次に放り出されてしまっている気がする。
人を愛するには自分を愛せていないといけない。自分を愛するには無条件に人に愛されていなくてはいけない。わが子を愛しむ以上に、大切なこととは一体何なのだろうか。人は愛情に生かされる。数学にではない。
先週は風邪をひいて寝込んでしまって、原稿を書くことができなかった。編集部に大変迷惑をかけてしまって申し訳ない。もし(万が一にも)月曜日の記事を楽しみにしていただいている読者の方がいらっしゃったなら、その方にも残念な思いをさせたかもしれない。
誰の言葉だったか思い出せなくて歯がゆいが、むかし次のような金言に出会ったことがある。
“風邪をひいても世界観は変わる。世界観とは風邪のようなものだ。”
健康な時でも「なるほど」と思うが、実際風邪をひくといっそう「なるほど、なるほど」と実感がわく。まず、周囲の環境に対する感じ方ががらりとかわる。布団はいつもよりあつぼったく感じられるし、金属製品は「ひんやり」を通り越して「ぞくぞく」した冷たさしか与えなくなる。味覚も嗅覚も鈍くなり、食事を十分に楽しむことができなくなる。
さらに、意欲や思考にも影響は及ぶ。少しくらいは勉強をしようかと思っても、瞬く間に集中力が切れる。仕方がないので本を読んだが、こちらも読み進めはするものの内容の理解はいまいち浅い気がする。しまいに投げやりになって、ラジオを聞き流しながら、布団の中で一日中じっとしていた。
医者にもらった薬がよく効いて、2日ほどで完治したが、もしこれが、例えば2週間続いていたらどうだろうか。世界観はさらに大きくかわっていくだろう。あるいは世界観が変化したまま定着していくだろう。2ヵ月だったらどうだろうか。2年ならどうか。そうなったら、もうそれは世界観の「不可逆的な」変化と言えはしないだろうか。「風邪っぴきの世界観」が「ふつう」になってしまって、発症から2年と1日目に突然風邪が治ったとしたら、逆に「風邪をひいたような」変な感覚に襲われるかもしれない。
「世界観とは風邪のようなものだ」という言葉を文字通り受け取る必要はないが、我々が平常時にほとんど無意識的に受け入れている世界観は、実は大して当てにならない、ちょっとしたきっかけですぐに揺らぐものなのだということは、ときどき思い出すとよいだろう――せめて風邪をひいたときくらいは。
まず、母語である日本語で実験が行われた。4個のうちは、まだ簡単だと思えたが、7個を過ぎたあたりから段々と苦しくなってきて、12個にもなると、正直もう何が何だかわからなくなってくる。英語の場合は、尚更で、今度は単純に数字が覚えられなくなるだけでなく、数字の個数が増えて「two five three nine six …」と連続で読み上げられるうちに、頭にぱっと数字が思い浮かばなくなったりする。
これらのことから考えて、実験結果は日本語>英語>第二ヶ国語の順に悪くなるだろう、と思っていたのだが(実際、講義内での平均値は予想通りになったのだが)、自分の結果は違った。なんと第二ヶ国語の結果が一番良かったのだ。まだ勉強し始めてから1年程度しか経っていないのに、何故、第二ヶ国語の結果が一番良かったのか。それは数字を記憶するときの方法の違いが理由だと考えられる。
私は日本語と、英語のときは、数字を一つずつ順に覚えようとしていた。しかしこの方法だと、数字の個数が増えてきたとき、最初の方の数字を忘れたり、最初と最後の方の数字は思い出せても、中間部の数字が抜けてしまったりしていた。そこで、第二ヶ国語のときは、個数が増えてきたら、一つずつ順に覚えるのではなく、数字の塊毎に覚えるようにした。例えば、8個の数字が読み上げられるときは、前半4個と後半4個の2つの数字の塊として覚えるといった具合である。こうすることで、1つずつ覚えるよりも、数字を覚えやすくなったのだ。
実験の後、人間の短期記憶の容量の限界は7±2チャンクであることを学んだ。ここでいうチャンクとは情報の単位で、見た目のまとまりや、意味的なまとまりのことである。
私が実験の際に数字を塊として捉えることで、数字を覚えやすくなったのは、このチャンクが関係しているのだろう。自分が実際にやったことと学んだことの間に繋がりを感じた瞬間だった。
毎週水曜に受けている講義に、教員が騒音アレルギーレベルで私語を嫌う、というものがあります。全くの静寂になるまで授業は始めず、授業中も私語が聞こえると中断、叱責。そしてその度に「ああまた授業が中断した」と言います。
そんな教員の一言、授業が終わり、レポートを書くという動作に移った際ざわつき、その時「喋っていいとは言っていないでしょ!」。
授業において、私語が犯罪級に検挙されるのは、「教員及び聴講者の学習を阻害する」というのが一般的でしょうか。しかし、不思議なことに私語を検挙する人は何故か少数派のはずの教員が圧倒的多数です。実際聞こえないなら聞いてるほうもそれなりに注意したりしてるはずですが。教員って気が散りやすいんでしょうか。しかも、レポート書いてるときまで。そのレポートが資料参考大いにOKだったので、カンニング防止とも思えませんでした。
話変わって、車の後部座席に座る人にもシートベルト着用義務が課せられましたね。国民三大義務(これについてもいろいろ意見が)に加えて、「自分の身体を守る義務」というところでしょうか。そのうち家に鍵をかける義務とかも出てくるのではないかと期待しています。
自分のことは自分で判断して、行動してるでしょうに、というのが以上二つの共通の感想です。もちろん、いつでも出来てるわけではなく、それゆえにたまには戒めとして「自立自律しろ」と考えたり言われたりするわけですが。己の感受性以外にも自分で守らないとなくなるものは多そうです。決めたり統べたりすると何かずれるよね、ってのももう一つの感想です。
そういう傾向もあるかもしれない。しかしこの「0か1か」の解釈は、私の抱くデジタル技術へのイメージと若干ずれている。
「0か1か」を百分率に直せば「0%か100%か」となるわけだが、それでは、その中間の50%のところはデジタルは相手にできないのかというと、「110010」と二進法でしっかり表せるのである。それよりももっと微妙な42.8352%何ていうようなものだって、0と1の組み合わせだけで表現できるし、有限の立場を取ったとしても有理数ならどんなものでも表現できる。情報量を増やせばどこまでも細かく分割していけるわけである。
私が問題にしたいのは「0でも1でもないもの」というよりは、「0でも1でも"ある"もの」である。「好きでも嫌いでもない人」というのはどうでもいい。分割によっては表せない情報、「好きだけど嫌い!」というこの人間の感情をどう表現するのか、「毎日の生活は楽しいけれどどこか寂しい」といった感覚をどう表現するのかが問題である。
量子論的な世界観にも近いのではなかろうか。実験観察をした途端、言葉にした途端、情報として表した途端に、0か1かとして現れてしまうもの。数直線の外にある、この捉えどころのないものをどう表現し伝え合うのか。これはデジタル社会固有のものでもあるまい。人間が言葉を獲得した瞬間から苛まれている問題であるはずだ。