忍者ブログ
孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
最新CM
[02/10 編集長]
[01/04 編集部紅一点]
[06/01 なんばぁ]
[05/13 日曜担当者]
[05/10 いちこ]
最新記事
(04/03)
(11/17)
(07/21)
(02/10)
(01/01)
最新TB
ブログ内検索
[21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

夏だ!午睡の季節がやってきた!
何を寝ぼけたことを言っておるのか。貴様は年中碌に講義も聞かず寝てばっかりいるではないか。午睡に季節も糞もあるものか。そのような非難は甘んじて受けたいと思うが、しかし、それでもなお夏が午睡の季節だというのにはしっかりとした根拠があるのだ。何となれば「午睡」はれっきとした夏の季語なのである。
夏の夜は蒸し暑くって寝付きが悪く、寝不足になるから昼に寝るのだという。夏なら昼間だって暑いだろうが、まあ分からない理屈ではない。
歳時記に言われなくても、私は夏の昼睡が一番気持ちいいと感じている。机に突っ伏して腕はぴりぴりに痺れてシャツの中は汗びっしょびしょ。それで起きたときに一気に体温が発散されてゆく感じ。もう爽快としか言いようがない。午睡最高!
PR
 偶然と必然。
 友人との何気ないメールの中で出てきた話題だった。

  【偶然】《名》
  ①何の因果関係もなく、予期しない出来事が起るさま。
  【必然】《名》
  必ずそうなること。

 広辞苑から抜粋すれば、二つはこのような意味であるらしい。
 私の友人は、偶然というのは、ただ言葉が存在しているだけに過ぎず、実際には、偶然なんてものはないと送ってきた。世の中の全ての出来事は、どんなに些細なことであっても必然、つまり、起こるべくして起っているという。
 確かにそうかもしれないと思いながら、私はこうも思った。偶然というのがただの言葉に過ぎないのなら、必然もまたそうなのではないか。
 人間は物事に因果関係や意味を求めたがる。だからこそ、物事が必然だと感じられる。だから、必然という言葉が存在するわけだが、実際には必然なんてものはないのではないか。確かに人間の目から見た世界の事象には因果関係があると考えられるが、もしかしたら人間の考えの及ばないところでは違うかもしれない。偶然も必然もないのかもしれない。
 まあ、人間の考えの及ばないところ…と、ここまで話を広げてしまうと、そこから先は何も言えなくなってしまう気もするのだが。
 少なくとも人間から見た世界に限定するなら全ての出来事は必然だと、私も思う。

 上記のような自分なりの考えを友人に返した。返事はまだこない。
 友人がこれに対してどのような意見を返してくるのか、楽しみである。

 

 

毎年この季節になると、私の家のそばの川には蛍の光がちらりほらりと見られる。私は毎年見に出かけるのだが、闇のなかで目を凝らしていると、少し間をおいてぽぉっと黄緑色の火が点灯される。この瞬間の幻想的な光景は、まさに「ほたる狩り」の醍醐味だ。気が向くとこっちに向かって来てくれる穏やかな飛び方、何にもとらわれずに生きているよと言っているかのような点滅の間隔、それらはとても心を落ち着かせる。そしてなによりも、この昆虫を見るために、子供やお年寄りも集まって皆が同じように感動しているのは心温まる風景だ。

 

そうして、安らぎを感じる一方で、「ほたる狩り」の時はいつもどこかで不安がよぎるのだ。それは、きっとあの光の色のせいだろう。当然だが、蛍の光は「蛍光」色なのだ。ラインマーカー、蛍光灯、パソコンの電源を入れたときの点灯ランプ・・・蛍の光から連想されるものは人工物だけである。あの発光の仕方とあの明るさは自然の中では他には見ることのできないものだ。紅葉や炎のような暖色なら、「ああ自然の光だ」と単純に思うのだろう。しかし、蛍光は落ち着かない。イメージとしては、暗闇とのコントラストもあいまって、宇宙人や未確認飛行物体を連想させる。それゆえ、私をひどく不安にさせる。

 

実際に蛍が出す光はあたたかくないそうだ。種類によっては毒をもつホタルも存在する。恋の歌に数多く詠まれていた蛍の光だが、よく見てみよう、身を焦がすような色ではないだろう。蛍雪の功、あの色では落ち着いて勉学にも励めないだろう。

 

「ほたる狩り」時に自分に言い聞かせる「なんて趣深いのだろう。」しかし、こんどは一度すべてのフィルターを取り去って、あの蛍の川に出かけよう。暗闇に消えては光る黄緑の光に、私はどんな感情を抱くのだろう。

  今電車を降りた。ホームでおっさんが言い合いをしていた。言い合い…というより、一方的にガラの悪いおっさんがもう一人の方をどやしつけていた。

「てめえもう50歳なんやろが!!ええ歳こいて非認めんかいこらぼけ!!!」

みたいな感じだったと思う。もう一人の人は曖昧なへつら笑いのような表情でそれを聞き流していた。

  誰もが一度は目にする光景であろうと思う。こういう時、決まって私は個人的なジャッジで下らないなと思う方をすごく迷惑そうに見るのであるが、同時に、ああいったおっさんたちにも仕事や家庭があって、ストレスやら何やら大変なんだろうなぁ…と要らぬ同情をしてみたりもする。
  怒鳴っているおっさんは、ここぞとばかりにストレスを吐き出してやる、という顔をしているように見えるし、それに耐えているおっさんは「こんなこと慣れてるよ」と言いそうな雰囲気ですらある。
  そんなおっさんたちは、今日も電車で寿司ずめにされているのだろう。
頑張れ、おっさん。

  けど、ええ歳してそんな言葉使いしか出来ないなんて、やっぱりどうかと思うよ。

「嗅覚論」をとても興味深く読んだ。確かに言われてみれば、嗅覚に関して我々は乏しい表現方法しか持たないようだ。とはいえ、幾ばくかは独特な表現があるに違いない。そう思って脳内の語彙表を繰ってみたが、何も出てこない。気になってしょうがないから、『日本語大シソーラス』(山口翼著、大修館書店)を繰ってみたが、やはり何も出なかった。嗅覚表現には、本質的には「香る」と「臭う」の二種類しかないようである。つまり、プラスの嗅覚とマイナスの嗅覚である。あるいは快・不快と言い換えてもよい。しかし、その区別も今ではあいまいになって、「良いにおい」という使い方も普通である(ただし、「匂」という感じを使って「臭」と区別がなされることが多い)。

このように私なりの分析をしてみるものの、やはりなぜこれほどまでに嗅覚関係の語彙が少ないのか、という問いに直接答えることはできそうにない。そこで私は、思考の舵を「感覚に関することばの役割は何か」という問いへと切っていった。

結論からいえば、この場合ことばは「圧縮」あるいは「濃縮」の役割を果たしているのではないかと思う。目の前に美しい景色が広がっている。私はこの景色を一生忘れたくないと思う。その瞬間私の中では、意識的にしろ無意識的にしろ、景色の言語分節が実行される。陳腐で申し訳ないが、例えば「青い空」「白い雲」「赤い屋根」「緑の木々」といった具合である。紙切れに書きとめたり人に伝えたりすれば、この言語データは客観的な形で蓄積される。そしてそれを参照することによって、私はことばを脳内に再生し、続けて景色を「思い出す」ことができる。その景色を二度と見ることがなくとも、私は「思い出す」ことができる。

しかし嗅覚の場合は事情が違う。私はにおいに関する語彙をほとんど持っていない。これは嗅覚情報がことばによって「濃縮」されえないということを示している。したがって客観視できる形での蓄積は極めて困難であり、代替手段としてそれ以外の感覚にかこつけて言語記憶したとしても、どうしても「しっくりこない」。つまり、私は嗅覚の記憶をことばを介しては「思い出す」ことができないのだ。においのフラッシュバックが強烈であることは、この裏返しなのであろう。一度体験したにおいに再び遭遇したとき、濃縮されずに記憶の中を浮遊していた「においそのもの」が待ってましたとばかりに反応する。こうした一連のありさまをとらえることで、他の感覚がいかに「不当に」ことばと結びついているかということに、私は気づかされるのである。

以上は「嗅覚論」の下手くそな焼き直しに過ぎない。これを変奏曲と呼んでよいのかはなはだ疑問だが、嗅覚の不思議さについて考えるきっかけになった。新しい発見があったらぜひ教えていただきたいし、私自身も引き続き考えていきたいと思っている。

任天堂のゲーム機といえばやはり「DS」に「Wii」である。
どちらもだいぶ売れているらしい。特にWiiというのは、コントロールバーみたいなのを持って、それを傾けたり振ったりして遊ぶらしく、私の良く知っている、十字キーとA、Bボタンでの操作とは一線を画しているようである。
ところで、私にとっての任天堂は「ゲームボーイ」に「ロクヨン」である。
特にロクヨンは、今までの、平面的な絵の中を平べったいキャラが上下左右に動くというのと違って(ま、所詮画面の中であることには変わりないが)、3Dスティックなるものが登場し、映像もより立体的なものになって、当時はそれがすごいものだった。
ロクヨンが出たころからなんとなく思っていたことだけど、ゲームがだんだんと「リアル」に近づいていくのにつれて(ここではゲームの世界が、ではなくて、我々のプレイ中の感覚が)、みんな今ではゲームが面白いって夢中になってるけど、だんだんと、やっぱり実際に自分で体を動かすのが楽しいんだってみんな思うようになってくるんじゃないか、野球ゲームもいいけど、やっぱり公園で野球してる方がいいんだって思うんじゃないか。
Wiiなんてものをはじめて見た時は、これはまた一段と実際的なものがでてきたな、と思った。きっとそのうち、専用タイツみたいなのを着て、センサーを置き、部屋にスクリーンをはって映像を映しながら、スポーツをしたり、アクションゲームをしたりするんではないか、あるいは、DSのソフトでよくあるような、何かを学んだりすることもできる、「ゲーム」から「現実」へ帰ってくるようなことが起こるんではないだろうか、と予感した。
ゲームというと何かと悪いことばかり言われるが、ゲームはゲームなりの「名作」があると思うし、それにやはり、外で野球をしようにもなかなか場所が確保できないといったいまの事情を考えると、ゲームもそれなりに役に立つものである。というか、あえてゲームに何か望むとすれば、そういうことである。つまり、別に実際にやりたいんだけど、実際やるには大変なことを、家にいながら体験したい、ということだ。
最近はもっと空想を膨らませていて、もしかしたら、ゲーム会社は、単にもっと性能の良いゲーム機を目指す、面白いものをつくる、ということだけでなく、社会貢献というか、「悪」と呼ばれるような世界から、こっそりと人々を連れ戻そう、そんなことを企んでいるんではないか、と思っている。もっとも、人々の方がさきに、何が本当に楽しいのかに気づいて、ゲーム会社がそれに追随してがんばっている、のかもしれないけど。
 メディアでも議論されましたが、出産に於いて子の無戸籍二世化を救済する案が為されました。子を筆頭者とした戸籍を新たにつくる、というのがその内容のようです。詳細は略。
 「無戸籍の連鎖を止める」ための初の判断ということで、親の戸籍の無いことが子どもに引き継がれるの防ぐと評価されています。
 戸籍の無い不利益を避ける、というところは強調されましたが、戸籍の存続には触れないのが議論の主流で、何とも残念です。
 詳しくは知らないのですが、戸籍制度が残る国(日本のWWⅡ時支配地域と被る)の中でも、韓国では撤廃の方向とか。不利益があり、「非嫡出児差別」などいろんな問題を産む制度ながら、なかなかほったらかしです。
 「古き善き伝統」?いえいえ、明治以降に作られた国策の産物です。ザンギリ頭の方がまだ古い?
ある種、「生まれながらにしての」差別を生む構造なわけです。哀しいかな。これが当たり前であるのは、何とも辛いと考えるわけです。
忍者ブログ [PR]