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名前
人間は森羅万象すべてに名前を付ける。生まれてくる子供や家族の一員であるペットはもちろんのこと、新しい生物や成分が発見されれば、それに命名する。学術上では舌を噛みそうになるラテン名をつけたり、自分の名前を入れ込んだりする。人間は名前という道具を用いて、意味を付与せずにはいられない生き物なのだ。
たとえば、動物は門・綱・目・科・・・と徐々に小さいグループ分類されている。確かに、同じカテゴリーに入る動物たちは見た目や構造であったり、習性であったりが互いに似通っていて、それゆえに「仲間」としてグルーピングされていく。しかし、グルーピングの客体はこの世に存在するものすべてであるのに対し、主体はホモサピエンスサピエンスただ一つだけなのだ。我々の知性が至高のものだと誰が決めたのだ?それも、我々が勝手に思い込んでいるだけのことだ。我々が用いる分類は、たしかにもっともらしい方法に見える。しかし、それは「もっともらしい」に過ぎないのだ。生物a,生物bはそれぞれ固有の特色を持つものであって、それが一見して似ているからという理由だけで、親戚にされてしまうのは、彼らにとってはいい迷惑かもしれないということだ。
「ある物」にAという名前を付けることで、それはもうAでしかなくなる。「ある物」には固有の具体的な特徴が山ほどあるが、名前を得たことでAでない要素はそぎ落とされて、「ある物」はAという性質のみを残す。つまり、命名によって具体の「ある物」から抽象のAへと変換されるのだ。
我々は文字にして、ことばにして、「ある物」を残しているとすごく安心するのだ。なんだか分からないものほど気持ち悪いことは無いからだ。しかし、「ある物」は名前と引き換えに多くのものを失っていることを忘れてはならないだろう。これが「言葉だけでは分からない」とよく言われる所以であろう。