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私の住む地域は少しばかり、京都の碁盤の目から外れたところにあるので夜はやや暗い。とはいってもいたって普通の住宅街なので、星空の見え具合はといえばこれもまた「普通」くらいだ。しかし先日表に出でみると、めずらしいことにずいぶんとお星さまがおでましになっているではないか。
ちょうどそのとき友達との別れ際であったので、その友達と一緒に「めずらしいね」と夜空を眺めた。中学生のころに習った方法で、カシオペア座から何倍分線を延ばして、北極星を見つける。あの星・・・かなぁ?なんだかめずらしいお星さまに紛れて、漁師の心強い見方も、今夜は影が薄い。またまた中学生のころの知識を引っ張り出してきて次は夏の大三角を見つける。(これは友達が見つけてくれた)綺麗だ綺麗だと同じ言葉を繰り返した。天球に星が貼り付けられている?そんなばかな、見れば見るほど奥行きが出てくるじゃないか。見れば見るほど、お星さまは遠くなっていくじゃないか。
夜空を仰ぐことなんて、なんだかとても久しぶりだ。ずっと見ておきたかったが、慣れない姿勢を続けていたために急に首が痛んできた。その痛みが私を急に現実に引き戻した。その引き戻し方はほんとに非情だ。「帰ったらあれもこれもしなくちゃ・・・お風呂から上がったら明日の準備もしなくちゃ。」という考えが頭をよぎる。お星さまの遥か下方で、ちまちませかせか動き回っている自分に失笑させられた。
お星さまを見つけてくれた友達とベラベラと喋り大通りまで見送ったあと、ぷらぷらと自宅へと足を運ぶ。「今日は部屋からお星さまが見えるかもしれない。」と、もう一度夜空を見上げる。
「あれ?」大三角とカシオペアの半分が雲に飲み込まれていた。ほんの数分間のことだったのに。なんて勿体無いの!あんなに綺麗だったのに。みんなも見られればよかったのに。この町だって昔よりは明るくなってきているんだから、もうしばらくは、あんな夜空見られないかもしれないよ。
負けん気を出すわけではないが、手元に『現代語から古語を引く辞典』(芹生公男編、三省堂)と『岩波古語辞典(補訂版)』(大野晋ら編、岩波書店)という強い味方がいるので、試しに引いてみる。
『現代語から…』で“かおる”を引くと、「かをる(香)」「きこゆ(聞)」「くんず(薫)」「にほふ(匂)」の四語が載っている。“におう”を引いてもほぼおなじことである。いくらなんでも嗅覚情報を表す語彙がひとつということはなく、四つほどは使い分けがあったらしいことがわかる。
次にこれらの単語を、大野氏への追悼の念を込めつつ、それぞれ『岩波古語辞典』で調べる。同辞典は、基本語の語源や同義語の相違点などについての解説が群を抜いて詳しい。「かをる」については、《煙・火・霧などが、ほのかに立ちのぼって、なびきただよう意。転じて、匂い漂う意》、「にほふ」は《ニは丹で赤色の土、転じて赤色。ホ(秀)はぬきんでて表われているところ。赤く色が浮き出るのが原義。転じて、ものの香りがほのぼのと立つ意》という丁寧な説明が施されている。「きこゆ」は《聞キの自発・可能・受身の形。エは自然にそうなる意》であり、ここから「匂って来る」という意味が派生した。「くんず」は「薫」という漢語をサ変化したものであるため語源解説はなく、「(香が)香る。匂う。」という一般的な意味のみが載っている。
四つの単語を辞書で引いたからとて、何か画期的な発見があったわけではないが、どうやら日本語には、初めから嗅覚由来である単語が皆無であるということがわかる。においに関する語彙はすべて、視覚や聴覚からの転義でできあがっているのである。そして、「続嗅覚論」で鋭く指摘されているように、これらの語は(主に人物の)「総合的な美しさ」を表すものである。日本語には嗅覚語彙が乏しいと言えばそれまでだが、感覚をいたずらに区分けすることなく、全体から「におい立つ」雰囲気を様々な言葉で表現したのだと積極的に捉えてみてもよいだろう。
勢いで『漢字源』(松本昭ら編、学研)を開く。【香】の篆文は「黍(きび)+甘(うまい)」で、きびを煮たときに、空気に乗ってただよってくるよいにおいをあらわす。【薫】は、香草のにおいがもやもやとたちこめることがもともとの意味だそうだ。中国では直接的にもののにおいを表現していたことがうかがい知れる。
何も考えない行動というのは、理由のない行動とも言えると思う。理由のない行動は知能の発達した生物になるほど多くなるらしい。植物はその存在の在り方のほとんどが種の保存という理由で説明できるという。花の色さえも虫が寄り付きやすい色になっていると知った時は驚いた。もっとも、花が虫に合わせたのか、虫が花に合わせたのかは分からないが。
理由のある行動とは生存や種の保存のための行動というのが始まりなのであろう。しかし生物は賢くなるにつれて段々訳の分からないことをしだす。人間になると理由もなくあるものに強く惹かれて、その好みが趣味に高じたりする。趣味に没頭する人間は実に生き生きとしていて、理由のない行動によって一番生き生きとするところが人間の不思議なところだ、とよく言われる。少々頭でっかちな考えじゃないかと思う。
私もよく理由のない行動をとるが、別に生き生きしてるとは思わない。それどころか死にたくなるような気持ちになることもしばしばだ。それは先の考えをもとに反論すれば、本当は何も考えてない訳じゃないが、結局とった行動がもたらした結果は何も考えなかった場合と同じだったから、自分では何も考えてないのだと錯覚してしまった、ということだろうか。なるほど、そうかもしれない。
私は夕焼けが好きで,心惹かれる姿になっていると空にただぼー…っと見入ることがしばしばあります。心に残っている夕焼けは中学3年と高校2年のアレだなあ,とか,ここは自分としては夕焼けの名所だなあ,とか勝手に考えています。そういえば高校のアトリウムもきれいだったなあ。
時折見られる「これは滅多にお目にかかれないぞ」というような焼け具合になっていたときは(何か違うものの話のような表記…),ご時勢ながら,携帯を取り出して残そうとしてしまいます。場所なんか気にして高台に登ったり,急に携帯を歩いている時に構えだして通行人がそのレンズと同じ方向を気にしたりと,いろんなことを構わず撮影しています。
しかし,お気づきかと思いますが携帯のカメラというものは,いやデジタルカメラは特に全般に夕焼けの記録が下手です。フィルムカメラでも充分逆光とかでいいのは技術がないと難しいのですが,デジタルは特に下手です。そりゃあそうか,撮「影」なんだから,などと自己納得させたりしておりました。
そんなある日,また夕暮れの時分,大きな塊の雲がほんのりと橙に染まって,なにやら壮大な様子を見せていました。ちょうど空に雲の輪がかかったようで,それが街の上に浮かんでいるような時に,ほんのりとした橙。例によって惹かれてぼーっと見て,何気なく携帯を取り出しました。そしてカメラを向けると,肉眼では青く残る空の一部までうっすらと橙に染まり,もともとほんのりと色づいていたところははっきり「橙!」になっていました。私は何度か画面と空を見比べて,印象の違いに驚いていました。
携帯のカメラは微妙な色合いを撮るのが苦手で,色彩や濃淡のグラデーションの対応に難があるようです。しかし今回のそれは微妙にまだ「青」といえるグラデーションの色を捉えきれず,強めの橙で表したようです。細かい理屈は分かりません。以前は微妙に「橙」のグラデーションがきれいだったのに青く写って大したことなかったという経験もありました。
「にほふ」という単語は、高校のときに使っていた古典単語の本には確か「つやつやと照り映える美しさだ」とか何とか、長ったらしい語義が書いてあって、とにかく視覚的な美しさを表す形容詞なのだと書いてありました。すると、昔々の日本語には嗅覚情報を表す言葉は「かをる」しかなかったことになりますね。
ただ、源氏物語の匂宮という登場人物が、薫に対抗して着物に香を焚きしめていることからその名で呼ばれている、ということもありますので、千年前には既に「にほふ」も嗅覚情報を表し、「かをる」と併せて、嗅覚の何か二つの側面を表していたということは間違いないでしょう。
勘の良い方はお気づきだと思いますが、薫は「かをる」という嗅覚に重なりますし(薫は生まれながらに良いかおりを放っていたらしいです)、もっと遡って光源氏だって「ひかる」という視覚情報を表しています。
嗅覚とか視覚だとか漢語を使うのも窮屈になってきました。「ひかる」も「かをる」も「にほふ」も人から出る美しさを形容する言葉として同一線上に扱われているのでしょう。現代のように画面を通して何ものをも見る文化においては忘れてしまいがちですが、何かが見えるということは、その臭いや香りが届くことも当たり前に伴うのです。
まぁそんなに長く、延々と練習をしているわけでもなく、チーム対抗の試合をゆるうくやっていたのですが。何せやっぱり試合って緊張しますね。サーブ、フォルトしまくりました。見かけによらず私はノミの心臓の持ち主です。試合が競ってきたりなんかすると、先輩と組んだダブルスなんかだったりすると、よく見ると手が震えていたりします。緊張でフォームが縮こまってしまいます。要するに…ヘボいです。私。
そしてこんな私だから、プレッシャーをものともしないプロの選手たちを見ると尊敬してしまいます。どんな心境なんだろうっていつも不思議です。勝ちにこだわらずテニスそれ自体が好きだから伸び伸びやれるのかな?それとも、勝ちしか頭になくって、それが良い方に働いて伸び伸び出来るのかな?
…緊張に打ち勝つ方法って人それぞれだと思います。今日も私は個別指導の研修の模擬授業でパニックになりました。普通にミスしました。対処は、仕切れた気がしません。けれど、少なくとも上がり性の私の中では、パニックは、それと意識したら悪化するから、向かうべき問題のみに没頭するべきだ、ということになっているので、パニックな自分を意識しないようにしていました。こうしていたら上がりにくい体質になるでしょうか。なって欲しいです。
でもやっぱり…こんなことをウジウジ考えあぐねている私のメンタル面は、アスリートになれる質のものじゃないな、という結論に至ります。そして、それはそれで、ウジウジした自分も良いじゃないかなんて思って、更にアスリートから遠ざかる。やっぱり私は勝ちに"行け"ません。
オリンピックでメダルを取れなかった選手を揶揄することなんて、一生出来ません。
先週末の夕暮れ時、私は近所の寺の境内を歩いていた。西方には夕日の気配がうっすらと残り、東の空には満ちかけた月が昇って辺りの雲を青く照らしていた。お精霊送りを間近に控えた境内は、たくさんの行燈に彩られ、ふだんとは全く違った妖しい華やかさと緊迫した静けさに包まれていた。
残光が薄らぐにつれて、法堂のシルエットが黒々と浮かび上がり、それを背景にして行燈の光がますます映える。人の気配はしない。砂利を踏みしめる私の靴音だけが規則正しく鳴っていた。
この寺に、今年は幾人の霊が還ってきているのだろうか。どんな気持ちでこの一週間を過ごし、何を思って向こうの世界に帰って行くのだろうか。数年前に亡くなった私の祖父が、この寺の納骨堂に眠っている。私たち家族の近くに暮らしていながら孤独な生活を好んだ人で、幼い孫には結局何も語らぬまま逝ってしまった。聞いた話では、彼は形あるものへの執着を根っから嫌ったという。亡くなった日の新聞と、鉛筆だけを握りしめて灰になった。墓はない。
そんな祖父の霊も、この境内の中を漂っているのだろうか。私を見つけても、きっと知らぬ振りをするだろう。何も教えてくれはしないだろう。そのかわり恨みも取り憑きもしないだろう。そもそも外に出るのが億劫で納骨堂にひきこもっているかもしれない。そうだとしたら、それが一番祖父らしい。
不謹慎なことを考えながら、私は法堂の周りをゆっくりと歩く。蝉の声がとぎれとぎれに聞こえる。ふと石段に目をやると、その中ほどに腰掛ける人影が見えた。行燈の薄明かりに浮かび上がるその正体は、私と同じくらいの年の、華奢な女性だった。そして、どうやら彼女は本を読んでいるらしい。お盆真っ盛りの人気のない境内で、行燈に照らされて読書にいそしむ。今どきそんな人がいるものだろうか。私は興味をひかれて、知らぬ間に足を止めていた。そしてしばらく彼女の方を眺めていたが、向こうは私がいることに気づく風もなく、一心に書物と向かい合っているのだった。
粋な幽霊もいるものだ。