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 今まで、小中高と学校生活を送ってきて、教師に対する生徒の反応が鈍い、何処か停滞した空気の授業というものを、皆一度は体験したことがあるのではないかと思う。
 しかし、先日、ある特定の授業というわけではなく、学校全体の生活に停滞した空気が流れていて、教師に対する生徒の反応だけでなく、生徒の発言に対する教師や生徒の反応も鈍いような学校も存在するという話を聞いて非常に驚いた。
 そもそも、あの一種独特の停滞した雰囲気というのは、どのようにして生まれるのだろうか。
 その原因は、コミュニケーションにあるのではないかと思われる。例えば、友人との会話では、自分から発言すると、友人からの反応が何かしら返ってくるものだ。その反応に対して自分もまた反応を返して、やり取りを繰り返す。こうしてコミュニケーションを行うことで、お互いの間に信頼関係が築かれていき、同時にまたコミュニケーションを行おうとする意志も生まれる。しかし、ここで自分が発言してもあまり反応が返ってこない場合はどうだろうか。相手からの反応が返ってこないと、自分から相手に働きかけようとする勇気や意志が少しずつなくなっていってしまうのではないだろうか。
 授業でも同じことで、教師に対する生徒の反応が薄いと、教師の働きかけも次第に薄くなっていく。そうなると、その薄くなった教師の働きかけに対する生徒の反応は更に薄くなっていき、あの授業の停滞感は生まれるのだろう。
 私たちが今まで学校生活において自発的な発言や行動をしてこれたのは、相手や周囲は必ず自分に対して反応を返してくれるだろうという安心感があったからこそなのだと初めて気付いた。この安心感を生むのが、日々のコミュニケーションの積み重ねなのだ。教育において、コミュニケーションは重要性が指摘されている。それが何故かなんて今までいまいち深く考えてはいなかったが、これも重要視される理由の一つではないかと思った。
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