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人が死ぬとあとには何も残らないのではないかと不安になる。生きているうちは超越的な何かを感じていても(それを神だという人もいる)、死すればそのまやかしさえ消えてしまうのではないかと考えるときがある。その人が生きていた証はどうやったら残るのだろう。子供を生み残すこと?歴史に名を残すこと?確かにそのひとが過去に存在したことは、それによって明らかになる。しかし、ただそれだけのことだ。その人の子供はいつか死に絶え、後世のものによって歴史は塗りかえられる。

 

 私はある日2つの遺産に出会った。特に意識はしていなかったのだが、それらはともに私の大切な人の大切な人が遺したものだった。

1つは美術作品であった。繊細な雰囲気を持ちながら芯のスッと通ったその作品は、そこで誰の目をも奪っていた。この作成者のことを私はほとんど知らない、しかしその人がその作品の中に生きているような気がした。

もう1つは音楽であった。力強い魂の叫びのような歌は、涙を誘った。この歌手の声を私はほとんど知らない、しかし後に歌い続ける人とその人を重ねて見ていた。

 

何も残そうとしなくてもいいのかもしれない。100年後、私を知っている人がいたとして何になろうか。きっと自然と残るべきものは残り、伝えられるべきものは伝えられる。人間の力にはそういう不思議な偉大さがあるのだ、そう感じた1日だった。

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今、「子供が壊れる家」という本を読んでいる。主に少年犯罪について書かれたものなのだが、確かに今の平成の世における殺人事件犯人の低年齢化は、目をそらしたくなる程の異常さである。これに関する見解や分析はメディアを通して色んな形であらわされているが、まだこれといってはっきりした答えが出され ていないのが現状であると思う。
なぜ、今子供が罪を犯すのか。これはたくさんの理由が複雑に絡み合って生じた事態であるため、確かに、上記のように分析は難しい。しかし、理由がないことには結果は生まれない。このままだらだらと、犯罪の低年齢化を見過ごすわけにもいかないだろう。
今回はまず、その理由のひとつと思われる「社会の過情報化」について考えてみたいと思う。
まず、現代は情報化社会である、これは間違いない。小学生だって、携帯を持ち、ネットの世界に没頭し、テレビに翻弄される時代である。この風潮は、「子供の権利を認める」という、素晴らしいスローガンに背中を押されて、精神的にまだ未熟な世代を資本主義市場で野放しにしてしまった結果のように思われる 。つまり、「権利を認める」の言葉を誤解して、親世代の本当の苦労、つまり「かわいい子には旅をさせる」ことをせず、勝手に都合良く子供たちを大人と同等に扱って大人と同じ環境に住まわせ、そのくせ、分厚い庇護膜の中で大事に育てた結果のように思われるのである。携帯やパソコンを買い与えるのは「大人と同等に扱って いる」からではない。親が子供に嫌われたくないからである。あるいはパソコンの長所短所を知らない世代だからかもしれない。そしてさらに現代では、酷いことに、それを子供の権利を守ることだと銘打つことができてしまう。子供が新たな世界に興味をもつことは当たり前だろう。私も友達と同じように携帯を欲しがって、たや すく買い与えてくれない親を恨んだりした。しかしだからと言って子供に要求されるがままに何もかも買い与えるのが、正しい教育なのかというとそれは違うだろう。世の親は今、たやすい方へ流されている、子供をかわいがる余り、本当にかわいがることの辛さから目を背けている。私はあの時、私をパソコンから引き剥がした両 親の苦労を思えばこそ、今になってそのことを感謝している。
・・・もっとちゃんと語りたいのだが、たぶん既にこの文は長すぎるので、続きはまた今度。いつか。笑
 あれは保育園の年長のときだから、14年ほど前の夏ということになる。私は祇園祭の曳初(ひきぞめ)に参加した。山鉾巡行の主役・長刀鉾を、組み立て後はじめて引っ張るのである。
 5歳の時の話であるから、記憶は断片的にしか残っていないが、いくつかの場面はかなり鮮明に思い出すことができる。
 まず、曳初に行く前に、長刀鉾とは何であるかについての説明を園の先生から受けた。長刀というのは包丁みたいなもので、空の上にいる悪いやつをその包丁で突き刺すらしい、ということがわかった。空って鉾の高さよりはるかに高いんじゃないかしら、と思って、なんとなく頼りない気がした。「おおきなかぶ」の話が引用されたかどうかは定かではないが、とにかくひとりひとりが頑張らないと鉾は動きません、と言われた。その言葉は妙に私を納得させて、私は頑張って引っ張ろうと気合いを入れた。
 当日は雲ひとつない夏空で、記録的な猛暑となった。とにかく暑かった。もう少しましな気温であれば、曳初の一部始終をもっと詳細まで覚えていたかもしれぬものを。交通規制が敷かれた四条通のアスファルトからは、ゆらゆらと陽炎が立っていた。天の悪魔を突き刺すという包丁を見ようと見上げた目を、真っ白な太陽が焼いた。
 曳綱は5歳の柔な手には太すぎた。そして粗すぎた。握った瞬間から痛かった。それでも私は負けん気を出して綱を引いた。私が引かなければこの鉾は動かない。体全体を前に倒して、両足を突っ張って、うめき声を上げながら私は一心に引いた。
 結局、私の記憶の中では、鉾は1ミリたりとも動いていない。実際には何メートルも進んだはずだが、びくともせず悔しかった思い出しか私の頭には残っていない。
 あとは、どの色も光っていない信号機をはじめて見て不思議に思ったとか、鉾の屋根に座っている男たちを見て落ちたら危ないなあと思ったとか、そんな脈絡のない「実感」がちらちらと想起されては消えてゆく。
 祭りを見て楽しむ「印象」と、祭りの中に身を置く「実感」。どちらが良いとか悪いではなく、それぞれ全く別の質感を持ったものなのだと思う。
 子供の頃、一番最初に書けた字はウルトラマンであった。一番のお気に入りのおもちゃもウルトラマンであった。そして一番最初の夢もまた、ウルトラマンであった。
 本気でなれるとは多分思っていなかったが、しかしなりたいと言う気持ちを押さえることができなかったのは確かである。
 この年になるまでそういう夢は色々抱いてきたと思う。憧れであったもの、熱中していたものに影響されていくつもの夢が現れては知らないうちに消えていった。
 そして今も、私はやはり色んな夢を持っている。特別することはなく、すべきことをもたらすような関わりもほとんどないため、私は自由にやりたいことをやれる環境にある。そんなわけで、私なりに色々やりたいことを考えている次第なのである。
 しかし今持っている夢は、どうも今までの夢とは性質が違うように感じる。今持つ夢は、現実逃避に思えてならないのだ。
 現実逃避といっても、叶える気がない夢ばかり持っているというわけではない。私の場合、夢は大体今の自分が持たないものを備えた自分の姿を想像しているもので、いつかはかくあらねばならないという思いが働いている。だから叶える気のない夢というわけではない。
 しかし、今持つ夢はある未来から逃れるために次々と浮かんでくるものであるように思われる。ある未来というのは、このまま時間が経ったとき来るだろうと思われる未来である。自分がこのまま余程意思を持って行動しない限りは結局行き着くであろうと思われる未来が頭のうちにあり、そこから何とか抜け出したいという思いから頭が勝手に夢を作り出している。
 だから現実逃避と言ってもあながち悪いものなのだとも言い切れない。少なくとも未来に対しただ呆然としてるわけではなく、危機感を持っていることが現れているからである。
 しかし決して真っ直ぐな夢とも言えないのが寂しいところである。かつて見た夢に比べれば何とも夢のない夢で、その意味では年を取ったものだと思ってしまう。その一方で、決まりかかった道を進みたがらないというのはいかにも若者くさい。やはり自分とはよく分からないものである。

駄詩一つ 

 

文月

 

 前略

 

あなたの活気が手元で広がったかのよう

 封筒を開けたときに熱気を感じました

 長らく封書などというものを忘れていた私は

 葉書やその他の機会のように

 文字だけ飛ばすことに慣れ過ぎたようです

 

 文章という

 文字だけでも言葉だけでもない

 一つの情景を

 この月に送ってくれたことが

 うれしくてなりません

 

 この月もまもなく暮れて

 あなたの葉もいっそう茂るでしょう

 稲もまもなく中干しが終わり

 豊穣への力を蓄えるようです

 

 暑さにどうか気をつけて

 あなたの前途が

 実りの季節に拡がる道でありますように

 

草々

 先週の更新をうっかり忘れておりました。すみません。
 本当ならば先週お伝えするのに恰好の話題だったのですが、今回は祗園祭のことを書こうと思います。

 私は今年の祗園祭に学生アルバイトとして参加しました。神幸祭において神輿を運ぶ行列に参加し、太鼓を運ぶという仕事でした。
 祗園祭というと、山鉾巡行がメインイベントとして思い出されるのでありましょうが(ヘタをすると宵山の方が祭のクライマックスなのかも知れません。人出で言えばそうなのでしょう。)、神事としての本来の祗園祭の意義は、八坂神社から四条寺町にある御旅所へ神々を運ぶ神幸祭と、その一週間後に八坂神社へと神々を返す還幸祭にあるのです。

 昼間の巡行に比べて地味とはいえ、それでも立派なお祭りです。神々を喜ばせるために綺麗な装飾を施された神輿、太鼓、何か分からないけど矛のようなもの、それに雅楽の演奏も伴ってなかなか見応えのある行列であります。昼間ほど人出も多くないので楽しく観光できるイベントだと思います。

 私は見られる行列の側にいましたが、そちらの視点もなかなか楽しめるものでありました。辿るコースは、普段では絶対にど真ん中を歩けないような大通りあり、意外と通ったことの無かった趣深い小径あり、大変興味深いものでした。定点から流れていく行列を見るよりも、行列にまじって流れてゆく景色を眺めている方が私は楽しいと思いました。

 先々週の今日、私はレスキュー隊によって谷底から救出され、消防のヘリコプターで病院に搬送された。

 7月6日、私はひとりで京都北部の廃村八丁にでかけ、途中で崖の下に転落して身動きが取れなくなった。初心者レベルの登山道だったが、一瞬の油断と焦りが事故につながった。落ちた場所は滝が幾重にも連なる複雑な地形で、二方向は滝、二方向は断崖絶壁、四方どこを見ても脱出できそうになかった。時刻は正午前、幸い特に大きな怪我もしていなかったが、なすすべもなく約24時間、警察の捜索隊に発見されるまで谷底にとどまることになった。

 滝から滝壺へ、また滝へと水が轟々音を立てて流れる中、時間は遅々として進まなかった。たまたま持っていたトランプを切り混ぜたり揃えたり、行き帰りのバスで読もうと鞄に入れてきた新書のページを繰ったりしてみた。かえって虚しい気分になった。携帯電話は圏外だった。手持ちのおにぎり3個とチョコレート10粒で何日生きられるか考えた。死ぬということは不思議と考えなかった。

 日が当らずじめじめして、濡れた足がこごえた。1時間がたったころには、何かをもてあそんで時間をつぶす気力はもはやなくなっていた。でこぼこの岩場にピクニックシートを敷き、両足を抱えてひたすらうずくまっていた。こわくはなかったが、とても不安だった。

 夜は文字通り真っ暗だった。目をつむると余計な幻想の走馬灯が回る。目を開けた方が暗かった。できるだけ体を動かしてはいたが、少しずつ体温の低下しているのが感じられた。眠ると危険だと思った。

 おそらく午前2時ごろ、漆黒の中をただよっていた私の目に黄色い光が映った。助けが来た、と一瞬思ったほどまぶしい光だった。私は一心にその灯を目で追った。蛍だった。激しい水音の中、蛍がただ一匹静かに飛んでいた。私はそのとき何も感じなかったと思う。安らぎを得ることも、余計に不安になることも、感動することもなかった。ただ少し面白かった。遭難して蛍を見るとは――。黄色い光は私のいる場所でしばらく迷うように飛んだあと、滝壺の向こうへと消えていった。

 翌日の午後、私は無事救出された。お世話になった多くの人に感謝と陳謝を申し上げたい。怪我は快方に向かっており、後遺症もなさそうだ。事故のこともそれなりに冷静に思い出すことができる。そのなかで、しかしあの蛍の光は、夢というか幻というか、ある種の非現実感を伴って、私の記憶の中で繰り返し再生されるのである。
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