孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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人が死ぬとあとには何も残らないのではないかと不安になる。生きているうちは超越的な何かを感じていても(それを神だという人もいる)、死すればそのまやかしさえ消えてしまうのではないかと考えるときがある。その人が生きていた証はどうやったら残るのだろう。子供を生み残すこと?歴史に名を残すこと?確かにそのひとが過去に存在したことは、それによって明らかになる。しかし、ただそれだけのことだ。その人の子供はいつか死に絶え、後世のものによって歴史は塗りかえられる。
私はある日2つの遺産に出会った。特に意識はしていなかったのだが、それらはともに私の大切な人の大切な人が遺したものだった。
1つは美術作品であった。繊細な雰囲気を持ちながら芯のスッと通ったその作品は、そこで誰の目をも奪っていた。この作成者のことを私はほとんど知らない、しかしその人がその作品の中に生きているような気がした。
もう1つは音楽であった。力強い魂の叫びのような歌は、涙を誘った。この歌手の声を私はほとんど知らない、しかし後に歌い続ける人とその人を重ねて見ていた。
何も残そうとしなくてもいいのかもしれない。100年後、私を知っている人がいたとして何になろうか。きっと自然と残るべきものは残り、伝えられるべきものは伝えられる。人間の力にはそういう不思議な偉大さがあるのだ、そう感じた1日だった。
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