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普段通る帰り道、何か雰囲気が違うなと思えば横断歩道を渡った角の古家がなくなっていた。ぽっかりと出来たその空間は広く、殺風景だった。そこが住宅地だったことも相まってだろうか、一軒の家が無くなったことは何年も同じ風景を保ってきたその場所に、大きな変化をもたらしていた。
しかしあっという間に無くなった家だ。きっと次の家が建てられるのもあっという間の出来事なんだろう。土台が作られ、骨組みが作られ・・・と思っているうちにそこを通れば新しい家が出来上がっているものだ。新しい家はまたそこのぽっかり風景にそれなりの変化をもたらすだろう。だが、私は新しい家を迎えたその風景にもきっとすぐに慣れてしまう。何年も見てきた古家の記憶は拭い去られ、あたかも新しい家がずっとそこにいたかのような気持ちになるだろう。
大事なものは無くしてその存在の大きさに気づかされる、とよく言うが、さして大事でないものは無くなってもその程度の感覚だ。そうやってあちらの家もこちらの家もどんどん脱皮していく。あの大きな木の葉も年毎に脱皮をくりかえし、川は整備され、道路は舗装され、私のふるさとはどんどん脱皮している。今こうしている間もこのまちのどこかが脱皮をしている。
気づけばふるさとという大事なものががらりと変わってしまっていた。さして大事でないものが集まって、私の大事なものを形作っていたのだった。もっと目を向ければ良かった、小さな脱皮をもっと愛しめばよかった。そう思った帰り道だった。
二階建てという発想はいつ生まれたのだろう、ということがふと気になった。住居を重ねて積み上げるなんて、尋常な発想ではない。建築史的に見れば革命的な概念であったに違いない。建築史の専門家は「世界最古の二階建て建築物」を知っているのだろうか。
二階建てに限らない。平屋ではない、複数階を積み上げた歴史的な建築物を思いつくままに挙げてみる。ストゥーパ・黄閣楼・五重塔・ピサの斜塔・金閣寺。どれも一般的な住居ではなく、権威とか宗教の象徴としての建造物である。単に背高のっぽにするのではなく階層的な構造を造るということが、いったいどのようにして発想されたのであろうか。
住居としての二階建てができたのは、ごく最近のことと思われる。都市が拡大し、人の数が増え、平屋ではそれだけの人を収容できなくなったために、階を積むことが考えられたのであろう。しかしそれは大した事件でもなく、歴史的に連綿と続いてきた階層建築の伝統を住居に応用しただけに過ぎない。
先史時代の人々が、部屋を上に重ねてみようという気になった、その過程に私はえらく興味を引かれる。自分の部屋を見回してみて思うに、部屋の上にもう一つ部屋を重ねようという発想が生まれるためには、部屋自体が重ねる気の起きるような形をしていなければならぬ。つまり、二階建ての起源には、部屋が四角くなったという出来事が大きくかかわっている気がする。むろん、四角(直方体)という形は狭すぎる十分条件で、とにかく床と天井が平行な平面であることが必要である。しかし一番造りやすい形はやはり四角であろう。
我々はもはや四角い部屋に住むことをなんとも思っていないが、人類史的に見れば、部屋を四角くあらしめた瞬間は大きな転換点であったろう。二階・三階と建物を積み上げ、文明の中に自分たちを規定していく歴史がそこからはじまったのだ。そんな気がしてならない。
正雀トワイライト 逢魔が時の炊事の匂い 下町のわりと平凡な日の終わりは 分厚い雲に囲まれ 鬱屈した期待の下にある (突然降る雨の轟音) 静まる世界 雲のはざま 明日への他愛ない胎動 橙に煌めく
真夏の象徴といえば青空に立ち上る入道雲だ。青をバックにしたあの異様な白さは何かぞっとさせるものがある。入道雲の不気味さは、照りつける暑さのど真ん中で、まるで対極とも言える夕立を連想させるからであろうか。案の定夕立にお遭いした時には、「あぁ傘をささなくちゃ」「洗濯物を取り込まなくちゃ」といった具合に現実に引き戻されて、さっきの入道雲のことなんてすっかり忘れてしまう。そうして、入道雲の話はもうおしまい。
次に私が気になって仕方がなくなるのが、雷だ。夕立の中でゴロゴロと不機嫌な音を立てるあいつにはハラハラさせられる。この夏は自転車での移動中に、あいつに見舞われることが多々あった。落ちてきたらどうしよう!!私に落ちてきたらどうしよう!!一体どんな確率で私に落ちてくるのかは、数字に強いどなたかにお任せするが、その値がいくら小さかろうと、ああ私に落ちてきたらどうしよう!!という気持ちになる。
稲光を見るたびにビクッとして低姿勢で自転車をこぐ。「いち、にぃ、さん・・・」と音までの時間を数える。「よし、まだ遠い。」稲妻が見えたときにはもう冷や汗が噴出す。「やっぱり雷は存在しているんだ。」どんなに雨が降ろうとも傘などは無用だ。無用、というよりあいつを招くことを懸念しての結果だ。しかしなぜみんな平然と道をゆくのだろう?
そんなことを頭の中でごちゃごちゃに混ぜながら、ようやく家に着く。私にとってはまさに命からがらといった具合だ。家のドアを開ける瞬間は、ほっとする。生きて帰ってきたぞぉ。シャワーを浴びてホットミルクをごくりと飲んで、冷えたからだが元に戻り始めたころには、窓の外は「普通」の夕方になっていた。入道雲の夕立も雷も、誰もいないただの夕方。帰路の出来事はみな夢だったのかなぁ?身の安全を保障された私はケロッと普段の大きな態度に立ち戻る。普通の生活のなかの普通でない部分はまるで夢のようだ。夢だったのかもしれないなぁ・・・そんな事を考えながら本当の夢の中へおちていく。
大丈夫、もう安全だ。目覚めれば、きっと「普通」の夜が待っている。人は最終的に哲学に行きつく、というようなことを考えながら歩いていた。どんな仕事をしていても、家族とか社会とか自分とか、そういった根本的な問題にぶちあたらない人はいない。そんなとき、哲学科を出たようなやつは、「カントによればかくかくだけど、マルクスによればしかじかだよ」などと知ったような口をきくかもしれないが、「じゃあ、君自身によれば?」という返しにはめっぽう弱いに違いない。
哲学とは、「体系化されたことば」である。であるから、哲学のある人とは、「体系化されたことばを持っている人」のことを指す。他者の言葉をどれだけ記憶しているかという問題とは根本的に次元が違う。抜け目なく「体系化されたことば」は世界を説明する。大概の事ならば、どんな質問をされても、哲学のある人は即座に自らの体系座標の中にその問題をプロットし、的確な解答を導くであろう。
西田幾多郎は思想家の全集というものをひとつも持っていなかったという。全集を買わずとも、その人の文章を数篇読めば、その他の問題に対して彼/彼女がどのように答えるか全てわかってしまうからだ。実際哲学とはそのようなものであろうと思う。すなわち、「私の哲学とはかくかくしかじか、うんぬんかんぬん…」というのが無数にあるわけではなく、その人の哲学という大きなひとつのものが存在していて、それでもって様々な問題に相対するのである。
こんな関係は、私の知る限り最も良い他者との関係であると思う。ではこれが愛なのか?しかし犬に対して抱く感情は、どうしても人間に対して抱く感情とは異なるものであろう。その辺は経験が特に足りないので何とも言えない。ただ、犬と共にいる雰囲気が自分を素直にしてくれる(時に素直以上のものにもしてしまう)のは確かである。それが他の空間ではなかなか得られないものであるだけに、一層犬といる時間は貴重なものに思えるのだろう。
しかし犬のみと一緒にいる時間は都合良く続いてはくれないもので、突如素直になりたくない者に自分の素直な姿を見られてしまうという恥ずかしい失敗をしでかしてしまうのである。そもそも私は犬を飼ってないのでこんなことは起こり得ないわけだが、そのうち必ず飼うつもりでいるので、注意しておかねばならないことだな、と思っている。
こういう場合の「哲学」とは何であろう。大学で哲学を専攻したからといって身に付くようなステータスではない気がするし、「哲学のあるひと」というのはもっと日常的に、色んなところに紛れていそうな響きがある。
紛れていそう。ここが恐らく重要である。
例えばアリストテレス、デカルト、ニーチェ。こういった人類史にその名を残す哲学者たちに対して「哲学がある」という言葉はそぐわないように思う。彼らは「哲学がある」というよりもむしろ哲学そのものであって、その思想内容でしか我々は彼らを認識していないのだ。そうやって固まってしまった哲学はむしろ「思想」と呼ぶに相応しいもののような気がする。
同時代人であっても、自身の哲学を強く誇示する人にあまり「哲学がある」という言葉はしっくりこない。その哲学を言葉にし現実を動かす力とした途端、それは思想性を帯びる。(もちろん、それが悪いというのでは全くない。思想がなくて現実が動かないのでは困る。)
是によりて之をみるに、「哲学のある」人がその哲学を応用する範囲は自らの行動なのではなかろうか。換言すれば、自分の考えに裏打ちされた行動をする人に私は憧れを感じるのだ。借り物の思想で動く人に哲学はない。自ら幅広く考え、それに基づいて為された行動は、凜としていて自信に満ちていると同時に、例えばそれを人に正されたとしても素直に反省することができるのである。