05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
この間長い信号を待っているときに、私と平行に進まんとして歩行者信号の変わるのを待っている数人のグループが喋っていて、それは普通のことなのだが、如何せん退屈なので少しそちらの方を見やって格別面白いこともなかったのでまた正面の信号に視線を戻した。
面白いこともなかった、というよりもずっと凝視していたら怪しまれるかもしれないと思って視線を外したのだと思う。ところで自分があのグループの中にいたとして、信号待ちのフルフェイスが微動だにせず此方をじっと見ていたらさぞ恐かろう、と想像してみて、何故かワクワクした。
学園祭のお化け屋敷やら肝試しやら、人を怖がらせる体験をした人は多いと思われるが、あのときの得も言われぬ快感というのは何なのだろう。人は、他人の知らないことを知っていると少し気持ちよくなるものだが、お化けに身をやつす快感はその優越感の疑似体験かもしれない。徹底的に自分が相手にとって「分からない」存在になっても、自分は自分であって「分かる」存在である。そんなお化けのマッチポンプ式な楽しみは、実に歪んでいて、実際の人間がやっていたらその人はまず間違いなく堕落するなあ。
そんなことを考えて漸く信号が青に変わってくれた。
さて、そんなことも関係しているのかしていないのか、先日、天文台へ星を見に行く機会に恵まれた。そこには、かなり大きな望遠鏡があって、それで、木星の縞模様やベガのダイヤモンドのような眩しさ、海王星の青や、肉眼では白く瞬いているようにしか見えない星の様々な色を見るのも勿論楽しかったのだが、何よりも私の心に残っているのは、地面に寝転がって眺めた満天の星空だった。
人生で二度目の天の川、幾度も目にする流れ星、地元では目にすることのない数々の星。このとき、目にしていた星の中で、普段空を見上げたときに見ることができるものはほんの一握りだ。だが、たとえ普段見えないと思う星でも、確かにそこで瞬いているのだと、存在しているのだと、そう強く思えた瞬間、嬉しいというか満ち足りた気持ちというか、なんともいえない気持ちになって、特に何を話すわけでもなく、何処かからの虫の音だけが聞こえる中、体がすっかり冷え切ってしまうまで、私はただただ空を眺め続けたのだった。
バスに乗り、一番おちつく後ろの席に着く。別にバスの中を観察するつもりなんて毛頭無いが、一番落ち着くのはバス全体が見渡せる一番後ろの真ん中の席だ。だが今日はとんでもなく落ち着かなかった。「見られている・・・。」斜め前の席からの視線を感じずにはいられなかった。その相手は小奇麗な女性の・・・カバンだ!
カバンに描いてある奇妙な生き物が私を見ている。コーヒーカップに顔があり、人間の体がくっついている。その顔は丸や三角や四角を用いた、ロボットのような見た目のいったって普通のキャラクターなのだ。しかし、そいつが私を見ている・・・多分こんなに奇妙な気持ちにさせる原因はそいつが持っているコーヒーカップにあるに違いない。コーヒーカップ君が持つコーヒーカップには、コーヒーカップ君と同じ顔がついている。怖い!!
この怖さは合わせ鏡をした時にひどく似ていた。鏡の中には鏡があり、その鏡の中にも鏡があって・・・その中の私は私を見ている。私の持つ鏡の中の私がまた、私を見ている。
複製されたものが私に恐怖を与える。複製されたものは際限なく増えてゆくような気がしてくる。みな同じ顔をしている、非生物的だ。しかし生物の根幹を成すあの二重螺旋もまた複製を仕事にしているらしい。この世界は複製であふれているのだろうか?
朝晩肌寒い季節になった。秋本番である。秋といえばスポーツ、読書、食欲といろいろなことが言われるが、要はどれも「体や頭をあたためる」ことを奨励しているにすぎない。あるいは、秋になって気温が下がれば、何かしら「あたたまる」ことがしたくなる。人とはそういうものであろう。
気温を表す表現は四つしかない。「あつい」、「あたたかい」、「すずしい」、「さむい」
である。このなかで、両極端の「あつい」と「さむい」はかなり客観的な表現で、気温が高いか低いかという単純な事実と相関があるように思われる。ところが面白いのが真ん中のふたつで、これらは気温の絶対的な高低とは関わりが薄い。簡単に言ってしまえば、感じる人の気持ちを含んだ相対的な表現なのである。
外気温が35℃の真夏、外出中にふと立ち寄ったお店にクーラーがきいていて室温24℃。だれでも「すずしい」と感じ、ほっとするだろう。逆に、雪の日に長時間待ってようやく目的のバスに乗れたとき、たとえバスの車内が18℃くらいだったとしても、命拾いしたように「あたたかい」と感じること間違いない。
「すずしい」とか「あたたかい」という表現は、決まった温度に対応するようなものではない。どちらも快適感、幸福感を表す言葉だと言えるだろう。あつい中にある一瞬の快楽が「すずしい」であり、さむい中にある至福の時が「あたたかい」である。
夏が好きか、冬が好きか、他愛のないことだがしばしば話題になる。夏が好きな人は暑いのが好き、冬が好きな人は寒いのが好き、と、深く考えるでもなく思っていたが、単にそういうことだけではないだろう。夏が好きな人は、例えば海とかアイスとかスイカとか、すずしいことに魅かれている。逆に冬が好きな人は、こたつとかおでんとか、そういうあたたかいものごとが好きなのである。
特に顕著なのは恋人たちである。ロマンチックな夜を過ごした帰り道であるからなのか、彼らの間には彼らだけの空気が漂っている。また恋人たちそのものが多い時間帯でもあり、駅はそんな空間であふれている。私には共感しえない辛い空間である。
二人のムードが高まると、彼らは駅のあちらこちらに立ち止まり、周囲を気にせず行動するようになる。
先日改札口に行くと、改札機の手前で二人の男女が立ち止まっていた。近くに寄ってみると、彼らは少しずつ距離を縮めながらじっと見つめあっている。私からは女性の表情しか見えなかったが、実に真剣な眼差しである。言葉を交わしていないが、何か通じ合っているのだろう。
だが私はその様子を見た瞬間に吹き出してしまった。彼らが自分達の空気に没頭してなければ笑ったことが気付かれ、一悶着あったかもしれないので危なかったわけだが、理由は分からない。駅ではよく見かけることで、わざわざ笑うようなことではない。彼らの顔が滑稽だったわけでもない。改札機の手前にはいたが、邪魔になる位置ではなかったし、私は彼らを皮肉っぽく笑ってやろうと思ってもいなかった。
けれども私は反射的に笑ってしまった。人の真剣な行動を笑うというのは良くないことだと分かっているつもりだったが、そうでもなかったようである。これはなかなか危険なことではなかろうかと心配になってしまう。
それともそんなことができるのが妬ましくて仕返ししてやりたかったのだろうか。それはそうかもしれないが、あまりにみっともない仕返しである。
今はバイトが終わって疲れてたんだろうと思っている。いずれにせよ、笑うということはそもそも挑発行為であったとも聞くので、注意しなければならないなと思ったのだった。
秋が深まってきました。気温から特に感じます。一昨日蝉が鳴いてたりしたんですがね。こういう時に「気づいたら秋が来ていましたね…」などと言っては月並みと切り替えされるでしょうか。
月並みっていうのが,最近どうも難しい概念です。辿ったら無季俳句を率先して作った正岡子規が俳諧の音律の平凡さを指して言ったらしいですが。でも長きに渡って,いや今も季語ってのは用いられて,音律に従うことも多いですよね。形式はおいといて,それが愛でられるから存在するわけで。
いやまた,人間というものの本性を考えてみてもいいかもしれません。アダム=スミスは「道徳感情論」の中で「人間は他者との共感を最大の快とする」みたいなことを唱えていました。いかに感性の鋭い人といってもそれが受け入れられない形では表現しないわけです。秋の感動を草野心平のように「るてえる びる もれとりり がいく。…」(「ごびらっふの独白」より)とは示さないものです。鹿はあくまでも奥山であひょーと啼き,それが月並みだと批判する側もあくまでも鹿を用いて表現するでしょう。秋と聞いてミミズを思い出しても,それがいかに根拠あったところで理解されません。つまり,人が秋を聞いて思い出しうるぎりぎりの境界線を探索するのが芸術家の仕事,月並みというのはチキンレースの結果の一つといえるでしょうか。
人は「自分の分かる範囲でおもろいことやってね,あんまり冒険しないでね,でも無難なのはやめてね,そんなのは月並みって言うよ」というスタンスでも取っているんでしょうか。いや,全くめんどくさい。人受けのために,というのも一方的な言い方ではありますが,秋が来たことくらい奥山から鹿を引っ張り出さんでも気楽に考えりゃいいのに,と考えていました。
筆者は,秋が来たので「月並み」に疑問符を呈しました。皆様,よい秋を。
生まれてこのかた、本当の日の入りを見たことが無かった。私の知る日の入りとは太陽が山やビルや雲の中に入ってしまうものだった。本当に太陽は地球の裏側に去って行ったのだろうか?私たちの知らないところで、気まぐれに方向転換しているかもしれない。はたまた、私たちが見ている太陽は毎日新しく更新されたものかもしれない。この星は太陽系の惑星?何だよそれ。
生まれてこのかた、本当の海を見たことが無かった。私の知る海とは、日ごろ食卓に出てくる魚たちがすんでいるらしいところだった。日本列島や世界の大陸を囲む青いところ。夏に人々がひしめき合って、楽しいふりをするところ。私たちの生命の源?何だよそれ。
先日本当の日の入りと本当の海をこの目で見ました。本当の日の入りというのは大きな大きな火の玉が、本当の海の中へ入ってゆくことを言います。その大きな大きな火の玉に照らされた本当の海は、朱色に輝くのです。この星の誕生期を思い出させる赤い海とあの星の終わりを連想させる赤く膨張した火の玉、不思議な光景でした。
その輝く水面に見えるのは波でした。本当の海は波で自己主張をしながら、少し強がっているようでした。水中を覗きながら、私ははじめてこの星に誕生したプランクトンのように漂います。海とは違って自己主張だなんて、できません。ただの人間ですから。海の中は生命で溢れ返っていました。色とりどりの、へんてこな形状の生き物たちで溢れ返っていました。カンブリア紀の爆発にも引けをとらない生物相。私が手を伸ばしても彼らは何も気にしません。私はただの人間ですから。空からの光が水中できらきらと輝き、私が放出した二酸化炭素も柔らかい球体になって輝いていました。