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いわし雲
秋の夜長に月影見れば
空に一面うろこの姿
ぼやけた月の笠がけ灯り
ほんのり照らす雲の粒
夏の盛りに聳えた空の
大入道の猛々しさよ
今は萎え果てその身をひそめ
寂れた風に千切られる
ああいわし雲いきものたちが
細かく砂になりゆくように
あの雲もまた身の果て知って
秋の夜長に儚げに
空一面の千切れた雲の
一つ一つに漂う季節
巡る時空に何を想うか
秋空覆ういわし雲
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
季節はずれのそんな短歌。といってもこの短歌に季節なんて関係なく、何でもないフツーの日のフツーの出来事を記念したくなるぐらい私は幸せなのよっていう短歌なのよっていう私の認識で、7月6日っていうのは出来るだけ何でもないフツーの日を選んで、サラダっていうのは出来るだけ何でもない料理を、ってちょっと待ちなさいな。サラダて。
作者が意図したかどうかは別に問題ではないのですけれども、せっかくの31文字を「フツーの幸せ」で済ませてしまっては短歌という芸術に対して失礼なので、ちょっと穿ってみましょうよっていうことですよ。
サラダっていうのは「野菜などを塩、酢、油、香辛料などで和えて盛りつけた料理の総称」とウィキペディアにあって、一般的にそれほど手間のかかるものではないし、味の優劣が問題になる機会も少ない料理だと思います。それを男が女に向かって「この味がいいね」という状況や如何に。
女の子が一生懸命作った料理を「美味しいね」なんつって褒めて「ありがとう」なんつってそんな新婚の甘ったるい空気の中では「この味がいいね」という白々しい台詞は生まれないでしょう。きっとこの男は前日出されたサラダのドレッシングが気に入らなかったのです。「何か前のドレッシングの方が良かったなあ」「あらそう。じゃあまた前のを買っておきますよ」「ああ、ありがとう。」そして翌日のサラダは今までと同じ美味しいサラダ。「やっぱりこの味がいいね」「じゃあこれからもそのドレッシングにするわね」
フツーの幸せなんてものでもない、本当に「ただのフツー」の夫婦の会話を想像する方がこの短歌は楽しいような気がします。日付は7月6日。七夕の前日ですが新暦なので梅雨は明けていません。じとじとと雨が降っていてそれほど気分が良いわけでもないし、かといって特に悪いわけでもない。そしていつも通りの食卓。何気ない会話でこれからのドレッシングの銘柄、いつぬりかえられるとも知れない協定が取り決められた、それだけの日。だから何、といわれてもそれだけ。それがサラダ記念日。
少し余談をしておくと7月6日はこの短歌にちなんで「記念日の日」とされているらしいです。記念日って何?そんなことを考えさせるための短歌だったのかも知れません。
以前、文章が書けないということを書いた。そのときは、言葉が浮かんでこないために書けない、と書いたが、逆もまたそうなのだと思う。言葉が次から次へと浮かんできて、書けないのだ。
文章を書くときには、普段考えていることや、ふいに考えを廻らせたことを書くのが、私にとって一番すんなりと文章を生むことができる方法なのだが、普段考えていることでも、それが自分にとってあまりに大きいものだと収拾がつかなくなる。頭が物凄い速度で回転し、次から次へと考えとしての言葉が浮かんでは消えていく。関係なかったと思っていたこと同士が結びつきはじめて、始めに書こうと思っていた範囲のことから、もっと大きな範囲へ、もしくは、もっと違った範囲の話へ思考はとんでいき、そのうち思考に手が追いつかなくなる。その思考がある程度自分なりの結論なり、帰着点なりを見つけて、まとまりを見せたときはまだいいが、それさえも見つけられずに、ぐるぐると思考の渦に呑み込まれれば、もうおしまいだ。こうなったら思考を形にするのはなかなか難しいし、たとえできたとしても、あまりにまとまりのない、長大なものになるだろう。
普段は、たとえ思考の渦に呑み込まれても、その途中にある何かを取り出して、ちょうどいい長さのものにしてしまうのだが、たまに何か物足りなくなる。この物足りなさを生むのは、恐らく、自分の中にある、この思考の渦を全て表現してしまいたいという欲求なのだろう。いつかこの大きな思考の渦を飼い慣らした上で、文章に限らずとも、何かしらの形にしたいものだ。
ドラマや映画を見ているとき、本を読んでいるとき、日々の生活を送っているとき、何によって、胸を締め付けられるように感じたり、涙が溢れ出してしまったりするのかを考えていた。
高校三年の夏休み、ある映画でぼろぼろに泣いた。映画の主人公が、ちょうど自分と同じ高校生で気持ちが同調しやすかった、というのもあるかもしれないが、主人公が、いつも隣にいた人ともう二度と会えなくなってしまう、そのことが、とにかく自分でも驚くぐらいの涙を流させた。
このときのことや、それより以前の経験から、私は「別れ」というものに弱いのだろうかと思っていたのだが、考えを廻らせながら、「別れ」そのものに弱いというよりは、むしろそれによって引き起こされる「日常の崩壊」というものに弱いのではないかと思った。
こう考えると、高校三年の二月頃、時折、不意にわけもなく泣きそうになっていたのは、(時期的に情緒不安定だったということも勿論あるだろうが、)目前に迫る卒業式によって訪れる「日常の崩壊」を感じていたからかもしれないと思える。
小説などには、よく、同じことが繰り返される毎日に退屈を感じる人物が登場するが、自分は存外、この「同じことが繰り返される毎日」が大切なようだ。実のところ、同じことが繰り返される「ように感じる」だけで、同じことが繰り返される毎日など存在しないというのが私の考えではあるが、それでも、同じように感じる、当たり前だと思える、そんな日常が私にとっては大切で、また、そんなふうに思える日常を過ごせていることを幸せに思う。
なんだか、とんでもないタイトルをつけてしまいましたね。残念ながら、とくにあの有名作に関する話ではありません。私はまだ読んですらいないのですから。
将来を思い描きます、普段使い慣れていない想像力をできるだけ働かせて。将来勉強したいこと、就きたい仕事、楽しみたい趣味、持ちたい家庭、理想的な人生の終幕・・・将来といえばこういったことしか思いつかないが、その限りにおいてめいっぱい想像をしてみます。もちろんその想像は一定の努力が伴えば、実現可能なことです。そういう意味で「想像」というより「予想」に近いものでしょう。私が長く生きれば生きるほどに、将来の予想は明確になってゆきます。これは当然のことなのです。小学生のころに描いた夢と現時点からみる将来像を比較すれば、そこにある現実性には大きな違いがあります。質という点で。将来像は年を重ねるごとにどんどん選択肢をせばめてゆきます。
私がこれから学ぼうとしている一つの分野についても同じことが言えるでしょう。法の根拠は正義です、では正義の根拠はどこにあるのでしょう?私たちの生活を包括的に規定する法は、西洋近代の生まれです。しかし前近代のそれと優劣がつけられるでしょうか?自然科学とは異なる論理構成で、争いを抽象化して具体例に還元します。この方法は正しいのでしょうか?そんなことを考えてみると、私が学ぼうとしているものはいったい現実世界においてどういう役割を占めているのか分からなくなります。専門的なことを学べば学ぶほど、多様性に満ちた現実世界か遠のいていく気がしてなかなか一歩が踏み出せません。学ぶにつれて選択肢が、視野が、せばまってゆく気がするのです。
将来も、学問も、全体を見る目が不可欠でしょう。今、自分がその世界のどこにいるのか、そしてどこに向かおうとしているのか、地に足を着けた自分とそれを上から見下ろすもう一人の自分が必要なのではないでしょうか。決して、そうすることによって多数派に付け!といっているわけでは無いのです。ただ自信を持った上で他者理解をするために、きっと大事なことなのだと思います。
私はまだまだ上から見下ろすための浮力を持っていません。そもそも地に足を着けてもいません。まだ靴を履きかけている途中です。靴を履いたら、とりあえずは草むらを掻き分けてみようかと思っています。掻き分けているうちに、上に飛び上がるための羽が見つかるかもしれない。
私は柴犬を飼っていて、それなりに可愛がっている。彼の仕事はもっぱら愛玩されることで、多少は番犬の役割も果たしている。それ以外の時間はとにかく寝ている。犬は一日に14~15時間寝るらしい。夢を見ているのか、時折足を動かしたり、突然吠えてその声で自分がビクッとなったりする。
そんな彼を見ていて一番面白いのが、ご褒美やおやつをもらった時の喜びようだ。特に、豚の耳や牛のアキレス腱など、よく噛んで味わう堅いものの時に、その喜びが激しく表現される。名づけて「よろこびのダンス」。まず、その「えもの」を直視せずにおもむろに近づき、偶然見つけたかのようにハッと目を開く。そして「えもの」を前脚や口先で転がし、その感触を確かめる。その後もなかなか「えもの」を咥えたり足で押えこんだりしようとせず、頭を伏せ尻を突き出した戦闘態勢でその周りを飛び回る。明らかに、「えものが生きていて捕まえるのに苦労している」というシチュエーションを自ら演出しているのだ。
ホイジンガは我々人間を他の動物から区別して、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)という名を与えたが、遊ぶのは人ばかりではないと、彼を見ていつも思う。彼がやっていることは、幼児がする「おままごと」と本質的に変わりない。動かぬ肉片を生きた獲物とみなし、生きている証拠である獲物の「動き」は自作自演する。完全なる「狩りゲーム」を彼は創造し、自らを楽しませているのだ。
彼の散歩をしていたら、彼がふと足を止めた。視線の先には猫がいて、道端にはえた猫じゃらしとひとりでじゃれていた。実に楽しそうだった。今日のテーマは16世紀のイギリス王妃アン・ブーリンの一生でした。この人を主役にした映画も公開されているそうで、その映像も交じえて番組は進行していたのですが、このくらいの時代の話を聞いていつも思うのは、昔の貴族は本当にあんな格好していたのか?ということです。
現代の我々とあまりにかけ離れて豪華で、ファンタジーの作り物にしか思えない時もあります。王妃や王の肖像画も、顔はしっかり人間ですがそのドレスの物凄さゆえに、その人間の実在さえもしばしば疑ってしまうのです。
しかし今回、ちょっと変わったことがありました。エリザベス一世は実はアン・ブーリンの娘であるのですが、番組の中でエリザベスの指輪が紹介されていました。指輪にはロケットがついており、それを開くとエリザベス本人と、アン・ブーリンの肖像が現れるのです。
その肖像の二人はいつも通りの豪華な衣装をまとった姿でした。しかしこれを観た時、私には急にその二人の存在が生々しく感じられました。というのも、エリザベスはイギリス王国の女王、象徴という立場を強く意識したかなり印象的な衣装をまとっていた中で、他人に見せる目的とは思えない母の肖像を指輪として肌身離さず持っていたからです。我々には現実離れした格好に思われるアン・ブーリンが、エリザベスにとっては正に強く慕う母であったことが分かります。
そんなエリザベスの思いがあったことを感じると、二人の存在を疑うことがちょっとできなくなりました。変な格好してるけれども、この二人の関係は確かに在ったんだなと思わざるをえない。初めて遠い歴史を実感した瞬間なのでした。