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アップのし忘れです。すいません。

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 ペアレント。という英単語は、単数形だと父、または母、つまり片親を表すわけなんだけれども、これって違和感、ありませんか?
 確か中学校で最初に習ったときはペアレンツ、と複数形で、その意味は両親、と覚えさせられたんだよね。その時にペア=二人組という間違ったイメージが、意識的か否かはともかく、頭の中でできあがっていて、語尾が「ト」だろうが「ツ」だろうが両親、って思っちゃうんだ。
 言語学で「誤った回帰(false regression, hypercorrection)」という現象があって、その内容は調べてくれたら結構簡単に分かると思うんだけども、これも別の地域・時代の言語が出会うことであらぬ方向へ言語が変化することなのね。
 こういうことって、昔よりも増えてるんじゃないかって思うんだ。つまりグローバル化?ボーダレス化?境界が薄くなっていくことで世界が画一化してしまうという危惧はよくきかれるけど、その一方で境界の向こうにある文化を誤解して、二者が交じってるようで交じってなくて、よりそれぞれの個性を強めあったりして、っていうこともあるんだって。ただ厄介なことに、単純に交じり合って画一化する場合ももちろんたくさんあって、それは境界を取っ払ってみないと分からないような気がする。シュレディンガーの猫みたいな感じだね。違うか。
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 秋の空は高い。どーんと高い。そこに雲が,遠くの台風からの風を受けてか,なめらかに流れていく。なんとも美しい。プラネタリウムの昼版というのはなかなか作りえないだろうな,とよく思う。こんな時つい「翼があったら飛んでいくのに」という何とも可愛らしい一言を言う人もいるかもしれない。

 

 「もし,翼があったなら」。古来から実によく聞く表現である。羽毛田丈史氏の音楽にもある。グーグルで「翼があったなら」で検索すると約880万件ヒットした。ヤフーなら約963万件である。英語なら“I wish I were a bird”というのが聞き覚えがある。もちろん仮定法なのでカエシがあるが。

 

 鳥になって大空を舞う…。なんともロマンチックである。そしてライト兄弟いやイカロスあたりまでそのロマンを追い求めた,というのも必ず学校にいる年頃に聞きかじる話である。

 

 しかし,人間のいけない領域に行くことを切望するなら,何故「もし,鰓があったなら」という表現は無いのだろうか。グーグルで「鰓があったなら」で検索したが,まともに文章が入っていたのは4件。ヤフーは文章が入っていたヒット数ゼロ。スキューバダイビングの完成に尽力した人の話など偉人伝にも無い。

 

 この差は何だろう。何故大空を舞うのはロマンチックで,深海を舞うのは語られないのだ!なんとも分からない。意見を公募したいくらいである。とかく人間は自分に無い能力に憧れる。今では両方の能力を代替させることに成功しているものの,やはり鳥に憧れる声はやまない。しかし,何故これほど人は魚に憧れないのか。かく言う自分も魚になりたいとはあまり思わないが,空は飛んでみたいと思う。何故だろうか。

 

 自分が飛びたいと思うシチュエーションはたいがい地面の上である。そして空を眺めている時である。海や湖などのそばに立って見下ろすなかで憧れは生まれない。それに魅力が無いわけではないのに。

 

 高さが理由だろうか。自分が届きたい所がこんなに身近にあるのに如何とも出来ない,それも自分より高いところに。そもそも,水に話を持たずとも「地底にもぐりたい」などとは余り望まないものである。自分を何故か大きく持ちたい我々は,秋の空の下ほどそう思ってしまう。「翼があったなら」というのは,そういうなんとも愛らしい永遠の願いかもしれない。

 この夏人気を博したかの有名なアニメ映画についての評価は賛否両論といったところだろうか。(私も耳について離れないあの歌と世の中の「流行」のために、劇場まで足を運んだ人間の一人である。)いやむしろ、その評価は賛と否と二元的に分類するよりも、広さ・深さとともに広がっているといってよい。概して子供向けだ・癒される・抽象的だといった感想が多く見受けられる作品だが、多数派が持つ感想が作者の真意だとは限らない。

この映画に対する見方のうちのひとつは私がインターネット上で見かけたものだが、それは神話学と本作の関連性に着目し、登場キャラクターの行動や作中の何気ない場面に象徴的な意味を与えている。その批評をふまえて改めてアニメを頭の中で再現すると、なるほど、恐ろしい具合にその批評と作品とのつじつまが合う。残念ながらその内容が本題ではないので割愛させてもらう。しかしながら、これはよくある都市伝説的なもの・裏を読もうとしてこじつけに走ったものとしても十分捉えうる。もちろん逆に、これは「子供を楽しませる」という設定の裏に隠された「大人を楽しませる」ための綿密すぎる作者の遊び心かもしれない。

どちらが事実であれ、その作品の見方が変わるだけで何度見ても繰り返されるアニメーションは1回目見たものとなんら変わりはない。受け手にゆだねられたものによってその作品の評価が決まるのだろうか。こういったこじつけめいたものは穿った見方をしたからだろうか?童心ならば作者の思惑通りこのアニメを存分に楽しめただろうか?私はただ単純に、「抽象的だなぁ・・・解釈はこちら側に委ねられているなぁ。」と思いつつ、それなりに(きっと子供らしく)その作品を楽しんだ。

「感受性」という言葉が頭をよぎる。私はごく一般的もしくはそれ以下の感受性の持ち主だ。と思っている。(そもそも感受性に優劣はないが、適当な言葉が思いつかないので「以下」と使う)本を読むときだって行間を味わったりしない、字面を目で追って内容をそれなりに再現する。再現された人物や家はどこかで見たことのあるもので、zeroから再現する想像力はとんとない。評論だって物語だって数日もすればすぐに忘れてしまう。一方で子供のころのような純粋な気持ちでものを見ることもできなくなっている。作品の批評に予め目を通せば、いくら自分らしく捉えようとしてもある種のフィルターがかかってしまう。これらのことは私を実に情けない気持ちにさせ、今までの人生の貴重な時間を浪費した気分にさせるのだ。ならば、穿った読み方を意識すればよいのか?徹底的に精読することが理想なのか?

ものの捉え方は他者のそれとの比較ではないだろう。自分と対象物との関係・文脈にすべては依拠している。私はまだまだ自分流のものの捉え方が身についていない。だから他人の意見を聞くと実に不安な気持ちになる。インターネットのひとつの記事によって、私はそんなことを考えさせられたのだった。

他人が私のことを表すのに、しばしば「謎」とか「不思議」とかいう言葉を使っていた。

私は、たいていの場合、それを「独特のおもしろさ」があると評価された気分になって、内心、少し喜んでいた。

最近のことであるが、そのときの微妙なうれしさの正体が、実は「自分のことを良い加減にわかってくれている」といううれしさ、満足感だったのか、と気づいた。

私のことを「謎」「不思議」などと言った奴ら(女性もいるが…)、「こいつ意味わかんね」と思って言ったのか、「よくわかんないとこもあるけどなんとなくおもしろいね」、と思って言ったのか、それとも「こいつはこういったら喜ぶらしいぜ」と思って言ったのかは、よくわからないけれども。

私がいま考えているのは、「あなたっておもしろいね」とか「おまえって○○なやつだな」とかいうのでもなく、「ごめん、おれにはわからない」とか「おまえ超越してるな」などというのでもなく、「謎だけどなんとなく面白いね」というのが(と私が思っている状態が)最も安堵感、うれしさ、をもたらす、ということについてだ。なぜそうなるかというのが、もう勿体ぶる意味もないけど、というか書くのも二回目だけど、「私のことを良い感じにわかってくれている」ということなのだ。

わかってもらえる、という共有できる喜び。

これはおそらくみんなの中にある(と私は勝手に思っている)が、「おまえのこと、俺わかってるよ」と言われるときの憤りに似た違和感もみんなの中にあるように思う。

私はあなたには掌握しきれないものを持っているのだ、と思うとなんだか得意になる。しかし、「あなたのことなんてわからないわよ」と言われると、どうしようもなく寂しい。

おそらく死ぬまで、みんなとすべてを共有できるグループになど、私は所属しないだろう。そんなもの存在しない気がするからだ。

いつも少しの違和感を感じながら、ときどき少しわかってもらって、ちょっぴりほっとするのである。

大学の後期が始まった。時間の密度が急激に高まる。粘液の中を泳ぐように、体力を消耗する。

この消耗は一種の快楽である。大学という知識と学問の府に於いて、めくるめく知のダイナミズムに揉まれることは、独特の恍惚感を伴う魅惑的な営みである。

 前期のあいだ、幾人かの優れた研究者との出会いがあった。学生の身分で教官の優劣を語るのはおこがましい限りだが、やはりひときわ輝きを放つ人物というのは素人目にも判るものだ。彼らと、その他の一般的な学者の違いは、独自の宇宙を持っているということに他ならない。整然と秩序づけられ、それ自身が閉じていながら、全体として絶え間なく伸縮し増幅する。そういう世界観を彼らは築いている。彼らの宇宙には、世の中のあらゆる事象や問題が位置づけられうる。時代の変化に伴い、突如として新たな概念が興隆したとしても、彼らの言葉はそれらを語り尽くすだけの力を持つ。

 そうした宇宙がキャンパス内に点在する。おそらく今日も、多くの人がそれらの宇宙に触れ、おそらく感銘を受けたり何か自分で考えたりする。けれども、もっと多くの人がそれらに無関係な一日を送る。世界観は、別なる世界観を変革することはあっても、世界を変革することはない。

 新たな世界観を打ち立てることの意味を考える。自分のことを知っている人がいて、知らない人がいて、これから出会う人と、出会わない人がいて、宇宙は無限に大きいようで、また同時に無に等しい。

 けれど、みんな人間である。それが、おもしろい。
 中学校からの友達が近々引っ越すことになったらしい。初めにそれを聞いたときは、引っ越し先の距離はそう遠くないし、メールもできるから、それほど大したことではないと思ってあまり驚きもしなかった。
 しかし後でぼんやり考えるにつれ、だんだん不安になった。 彼は高校、大学とも同じではないが、学校への行き帰りの道でよく会った。そのため彼の顔を忘れるようなことはなかった。しかし彼が引っ越しすれば、顔を合わせることは滅多になくなるだろう。私は忘れっぽい。段々と彼の顔にもやがかかり、自分の妄想加わり、記憶は実際の顔から少しずつ変わっていってしまうだろう。そしてもし久々に会う機会があろうとも、彼自身もやはり変わっており、私の思うものと随分方向性は変わってしまうだろう。
 美醜関わらず、顔は大きな個性である。もし彼の変わりようが、彼の内面なども踏まえて私が頭に描いていたものと同じならさほど違和感はないかもしれないが、そうでなければどうだろう。私の思う『彼の個性』が感じられないとなると、やはり彼を遠く感じてしまうのかもしれない。顔は大きな個性であり、そして他の個性とも強く結びつけられているのだと思う。
 しかし、勿論人間顔だけじゃない。顔の個性をぶっ飛ばすようなふざけた個性を持つ人はいっぱいいる。私の友人も、その類いであると思う。そのうち再会したとき、疎遠な気持ちなどまるで感じさせないものを放ってくれたらいいなと思う。むしろ私が相手にそんな気持ちを抱かせないようにすべきか。まぁ要らぬ心配だろうけど。

 土曜日担当の私はこれまで初回と詩の投稿を除いて文章を「ですます体」(で・すますではない。です・ます)書いてきました。今年の9月11日に文章を投稿された方が文体について「同じ内容でも、読み手に与える印象というのは大きく変わってくるでしょうし、書きたい内容や自分のそのときの気分に合わせて、文体が変わるのは当たり前のことのように思えます」と書いておられましたが,私も最近文章が「である体」で浮かんでくることもあって,束縛されなくてもいいかな,と思い始めました。

 

 では,この「である体」と「ですます体」にはどういった差があるのでしょうか。悩みます。もともと私が「ですます体」を使うのは五味太郎氏の「大人問題」などを読んで,堅苦しい内容を堅苦しくない見方をして,堅苦しい言葉と堅苦しくない言葉を堅苦しくない選択をして整えた文章に感銘を受け,その練習としたことが理由です。~である,なんてどうも意気高で,明治期の髭のオッサンくらいに肩肘張った感じがしていました。私の文章など軽薄なんだからかっこつけても仕方ないんだよもう,というわけで「ですます体」を一年以上使ってきました。

 

 しかし,「ですます体」というのは敬語です。いや,丁寧語です。人に対して使うあれです。これで文章を構成するならば必然的に相手を意識し,語りかけるような文章になるはずです。一方「である体」という喋り方をする人はそれほど多くありません。意気高に見えるほどですし,強い説得力を持たせるなどの効果はあるでしょうが,根本的に人に使うことばではありません。また,自分が自分の中で考えるとき,また独白で丁寧語を使う人は統計とってませんがそう多くない感じがします。

 

文章を書くならまず自分の中で洞察と考察があるはず。つまり,思想はまず「である体」で生まれると思います。それを人に言うにあたって「ですます体」で説明する。なので,とりあえずここで強引に結論付けると「自分の中の思索の結果は『である体』,何か主張になると『ですます体』に自然となるんやない?」です。

これが法則などというつもりはありません。「そのときの気分に合わせて、文体が変わるのは当たり前」なことに賛同しますので。文体がどういう意味か,ってのは研究者がいるでしょうし,逆にいたところで個々の感性の前に法則化も出来ないでしょうし。というわけで,気分と方向性によって文体くらい変えてみよう,と思います。

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