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他人が私のことを表すのに、しばしば「謎」とか「不思議」とかいう言葉を使っていた。

私は、たいていの場合、それを「独特のおもしろさ」があると評価された気分になって、内心、少し喜んでいた。

最近のことであるが、そのときの微妙なうれしさの正体が、実は「自分のことを良い加減にわかってくれている」といううれしさ、満足感だったのか、と気づいた。

私のことを「謎」「不思議」などと言った奴ら(女性もいるが…)、「こいつ意味わかんね」と思って言ったのか、「よくわかんないとこもあるけどなんとなくおもしろいね」、と思って言ったのか、それとも「こいつはこういったら喜ぶらしいぜ」と思って言ったのかは、よくわからないけれども。

私がいま考えているのは、「あなたっておもしろいね」とか「おまえって○○なやつだな」とかいうのでもなく、「ごめん、おれにはわからない」とか「おまえ超越してるな」などというのでもなく、「謎だけどなんとなく面白いね」というのが(と私が思っている状態が)最も安堵感、うれしさ、をもたらす、ということについてだ。なぜそうなるかというのが、もう勿体ぶる意味もないけど、というか書くのも二回目だけど、「私のことを良い感じにわかってくれている」ということなのだ。

わかってもらえる、という共有できる喜び。

これはおそらくみんなの中にある(と私は勝手に思っている)が、「おまえのこと、俺わかってるよ」と言われるときの憤りに似た違和感もみんなの中にあるように思う。

私はあなたには掌握しきれないものを持っているのだ、と思うとなんだか得意になる。しかし、「あなたのことなんてわからないわよ」と言われると、どうしようもなく寂しい。

おそらく死ぬまで、みんなとすべてを共有できるグループになど、私は所属しないだろう。そんなもの存在しない気がするからだ。

いつも少しの違和感を感じながら、ときどき少しわかってもらって、ちょっぴりほっとするのである。

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