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 秋の空は高い。どーんと高い。そこに雲が,遠くの台風からの風を受けてか,なめらかに流れていく。なんとも美しい。プラネタリウムの昼版というのはなかなか作りえないだろうな,とよく思う。こんな時つい「翼があったら飛んでいくのに」という何とも可愛らしい一言を言う人もいるかもしれない。

 

 「もし,翼があったなら」。古来から実によく聞く表現である。羽毛田丈史氏の音楽にもある。グーグルで「翼があったなら」で検索すると約880万件ヒットした。ヤフーなら約963万件である。英語なら“I wish I were a bird”というのが聞き覚えがある。もちろん仮定法なのでカエシがあるが。

 

 鳥になって大空を舞う…。なんともロマンチックである。そしてライト兄弟いやイカロスあたりまでそのロマンを追い求めた,というのも必ず学校にいる年頃に聞きかじる話である。

 

 しかし,人間のいけない領域に行くことを切望するなら,何故「もし,鰓があったなら」という表現は無いのだろうか。グーグルで「鰓があったなら」で検索したが,まともに文章が入っていたのは4件。ヤフーは文章が入っていたヒット数ゼロ。スキューバダイビングの完成に尽力した人の話など偉人伝にも無い。

 

 この差は何だろう。何故大空を舞うのはロマンチックで,深海を舞うのは語られないのだ!なんとも分からない。意見を公募したいくらいである。とかく人間は自分に無い能力に憧れる。今では両方の能力を代替させることに成功しているものの,やはり鳥に憧れる声はやまない。しかし,何故これほど人は魚に憧れないのか。かく言う自分も魚になりたいとはあまり思わないが,空は飛んでみたいと思う。何故だろうか。

 

 自分が飛びたいと思うシチュエーションはたいがい地面の上である。そして空を眺めている時である。海や湖などのそばに立って見下ろすなかで憧れは生まれない。それに魅力が無いわけではないのに。

 

 高さが理由だろうか。自分が届きたい所がこんなに身近にあるのに如何とも出来ない,それも自分より高いところに。そもそも,水に話を持たずとも「地底にもぐりたい」などとは余り望まないものである。自分を何故か大きく持ちたい我々は,秋の空の下ほどそう思ってしまう。「翼があったなら」というのは,そういうなんとも愛らしい永遠の願いかもしれない。
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