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 土曜日担当の私はこれまで初回と詩の投稿を除いて文章を「ですます体」(で・すますではない。です・ます)書いてきました。今年の9月11日に文章を投稿された方が文体について「同じ内容でも、読み手に与える印象というのは大きく変わってくるでしょうし、書きたい内容や自分のそのときの気分に合わせて、文体が変わるのは当たり前のことのように思えます」と書いておられましたが,私も最近文章が「である体」で浮かんでくることもあって,束縛されなくてもいいかな,と思い始めました。

 

 では,この「である体」と「ですます体」にはどういった差があるのでしょうか。悩みます。もともと私が「ですます体」を使うのは五味太郎氏の「大人問題」などを読んで,堅苦しい内容を堅苦しくない見方をして,堅苦しい言葉と堅苦しくない言葉を堅苦しくない選択をして整えた文章に感銘を受け,その練習としたことが理由です。~である,なんてどうも意気高で,明治期の髭のオッサンくらいに肩肘張った感じがしていました。私の文章など軽薄なんだからかっこつけても仕方ないんだよもう,というわけで「ですます体」を一年以上使ってきました。

 

 しかし,「ですます体」というのは敬語です。いや,丁寧語です。人に対して使うあれです。これで文章を構成するならば必然的に相手を意識し,語りかけるような文章になるはずです。一方「である体」という喋り方をする人はそれほど多くありません。意気高に見えるほどですし,強い説得力を持たせるなどの効果はあるでしょうが,根本的に人に使うことばではありません。また,自分が自分の中で考えるとき,また独白で丁寧語を使う人は統計とってませんがそう多くない感じがします。

 

文章を書くならまず自分の中で洞察と考察があるはず。つまり,思想はまず「である体」で生まれると思います。それを人に言うにあたって「ですます体」で説明する。なので,とりあえずここで強引に結論付けると「自分の中の思索の結果は『である体』,何か主張になると『ですます体』に自然となるんやない?」です。

これが法則などというつもりはありません。「そのときの気分に合わせて、文体が変わるのは当たり前」なことに賛同しますので。文体がどういう意味か,ってのは研究者がいるでしょうし,逆にいたところで個々の感性の前に法則化も出来ないでしょうし。というわけで,気分と方向性によって文体くらい変えてみよう,と思います。

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