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 (文学的な話でなくて申し訳ないけれど)最近絵を描くことに興味を持っている。ひとまずは写実的な絵が描けるように努力している。
 もともと落書き程度のものしか描いてこなかったので最初は特に何も意識せず模写を繰り返していたが、それだけでは一向に本物らしさが出ない。どうすれば良いかと考えるうちに、描こうと思うものをじっと眺める癖がついてしまった。しかし眺めたからといって何か出てくるわけではない。何か自分から出さねばならない。それも分かっていながら怠けて、ずっと何か出ることを期待してるうちに、今度は何でもじっと眺める癖がついてしまった。
 もし模写するならどう描いたらいいだろうと思って物を見ていると、分かりやすい形の物の並ぶ空間だと妙に落ち着き、逆にそうでない物の並ぶ空間では頭が混乱して嫌になってしまうことがある。奇妙な病気にかかってしまったものである。
 しかし例えば植物は同じような物が小綺麗に並んでいることや、建物は真っ直ぐに建っていることなど、当たり前のことが改めて実感される。ありふれたものをじっと眺めるようになったことは、改めてものへの関心を持つ機会にもつながっているので、悪いことではない。

 ただ写実的に描くのならば、写真を撮る方が早いだろうという意見もあるし、事実絵画史においても写真の登場とともにその主流は写実画から抽象画へと移っていったようである。しかしそこで問題とされているのは、あくまで描いた結果である。写実的に描こうとするその過程でじっくりものを観察することに、写真を撮るだけでは得られない意義があるのだと思う。
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我々日本人は四季の移り変わりを多かれ少なかれ感じながら生活しているが、とりわけ大きな変化を感じる瞬間が、一年のうちに二度あると思う。桜や紅葉を見ると、もちろん春や秋の訪れを実感する。だがやはり、「瞬間」と呼ぶのに最もふさわしい二つを挙げるとすれば、まずは朝目覚めて一面の銀世界を目の当たりにするとき、そして、蝉が一斉に地中から這い出し鳴き始めるとき、であろう。住み慣れたはずの身の周りの世界が、非現実的な色彩や、あるいは非常識な大喧騒によって、短期間のうちにすっかり変貌してしまうのである。特に蝉時雨は、ある日突然その堰が切って落とされ、しかも主役を交代しながら数週間居座り続ける。梅雨明けの暑さを現実として受け入れることを余儀なくさせる音、とでも言えようか。

驚いたことに、今年最初に見た蝉は、こともあろうに死体であった。車輪に押しつぶされ、無惨な姿だった。しかし、さらに驚いたのは、その翌日、羽化したばかりの蝉を見かけたことだった。土塀にしっかりとしがみついて、濡れて縮んだ二枚の羽が乾いてまっすぐに伸びるのを、静かに待っていた。負と正と、死と生と、両極端に揺れる劇的な感動を味わった夏の始まりだった。

 残暑の厳しい日が続いていますね。夏休みとは言え、忙しい日々を送っている人もいるのではないでしょうか。
 さて、美術館というのは実に涼しいところで、外の熱気と比べると少し寒いくらいです。いま、京都市美術館では、フィラデルフィア美術館展が開催されていて、多くの人々が涼みに、いや、絵画や彫刻を見に、岡崎を訪れています。
 実は私も先日そこへ足を運んだひとりで、たっぷりとルノアールやらピカソやらの絵をみてきました。ひとつひとつじっくり見てまわると、2、3時間はすぐに経ってしまって、おやもうこんな時間か、と意外に思ったりもします。まったく、人間の時間感覚とはあてにならないものです。これが、多くの人が、外へ出るときに腕時計をする理由です。もっとも、携帯で見れば良いからしない、という人もたまにいるのですが。たとえば、学生なら授業の時間に遅れないように、サラリーマンであれば種々の仕事をこなすのに、といった風に、時間を知るというのは重要なことで、その点腕時計は欠かせません。
 しかし、ときどき、自分が時間に縛られているような、そんな気分になるときもあります。(これは忙しいという感覚に近いだろうか)。こんなとき、腕時計は手かせのような存在となります。
 そんな状況から脱したいと思うから、という訳でもないですが、今日これからは用がない、という時には、時計をはずして出かけます。散歩をしながら、絵を見ながら、時間を意識しないでいるというのも、良いものです。
今、私は原稿用紙でこれの原稿を書いている。ペーパーレス化の中で敢えてやっているが、文を自らでつくるという感じがより強く感じられて面白い。蝉の声を聞きつつ升目を埋めていると、風物詩といえる苦難だった読書感想文の宿題を思い出した。
 児童、生徒だった頃、必ず夏休みには原稿用紙の枚数を稼ごうと四苦八苦していた。純粋に感想を綴って秀でた作品を書き上げる人はいるだろうが、私は何度も「感想」を捏造した。年を追うにつれて評論じみたものが要求され、単に感想を捏ち上げるだけでは済まされなくなり、一層難儀したものである。
 もともと人間を変えるほどの本と出会えることなど極僅かであろうし、そういう場合も感想を文にしたためる人は稀有だろう。だから何も全員に課すほどのことではないと考えている。「読書感想文の書き方」と銘打たれた本が売れる現実を見ても、何かさもしい気持ちになってしまう。
 ただ、一律に課すということに反対しているのであって、読書の感想を何かに変換することには賛意を持っている。学んだ、感じたことを、文章という形に限らず表現することは読書を自分に定着させることを助けるだろう。他人に読ませるなどと考えずメモ帳に想いを書き連ねるも良し、おもむろに本を閉じ踊り出すも良し、要するに本の語りかけに対し「返事」をするアクションがとれれば良いのである。
 これまでつい「ウケ」を狙って捏造をしてきて、課題から放たれた今になってこのように考えてしまっているのも情けない話だが、他人のためでない感想文は書いていきたいなあと考えている。
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