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ライオンの赤ちゃんの可愛らしさは神がかっている。いや、神がかってるというより、多分神様によるのだろう。
ライオンはもともと人間に狩られるような動物ではなかったはずである。だからライオンの赤ちゃんが人間に狩るのを躊躇させるほど人間の眼に可愛らしく映る必要などないのだが、どうみても鳴き声も何もかも可愛らしい。私に母性本能はおそらくないから、ただライオンの赤ちゃんは可愛いのだ。また狼(だったか?)が人間の双子の赤ん坊を育てたという事例があるらしい。狼にも人間の赤ん坊が可愛らしく映ったのではないだろうか。赤ん坊というのはどうやら、餌として見る場合を除けばどんな者にも可愛らしく映る美しさがあるようである。
この美しさがどんなものかと表すのは難しいが、重要なのは全く関わりをもたないような別の種の生き物にさえも赤ん坊はその美を発揮できるということ、つまり赤ん坊の可愛いらしさはもともと他の種にも適用されうる高い応用力を持っているということである。このことから私は赤ん坊は自然淘汰の過程で徐々にその可愛らしさを洗練したのではなく、秘訣を知る何者かに可愛らしさを始原より授けられて、どの時代にも愛されてきたのだと思う。そしてそんな秘訣を知る者とは、正に神様しかいないのではなかろうか。
ということで私は一応神様を信じている。いたらいいなぁ、という程度に。可愛らしさの秘訣もできれば知りたいものだが、それはなかなか難しそうである。
隣人が引っ越して、その家が取り壊されることになった。昔ながらの木造住宅だが、もうずいぶんとガタがきていたようだ。先日、その取り壊し作業が終わり、跡はきれいな更地になってしまった。ぽっかりあいた空間からいつもとは違った光が差し込み、どうも一々の勝手が悪くなる。照り返しがまぶしいのでカーテンを早めに閉めたりだとか、ぽっかりの空間に響いてしまう気がして家族の話し声が低くなったりだとか。慣れない動作が増えるけれど、それもまた新鮮で面白い。居間の窓からは、更地をはさんだ向こうの家に真っ赤な百日紅が咲き誇っているのが見える。
数日前、その窓から晴れた空を見上げると、一群のうろこ雲が目に入った。秋の空だ。地上では日中の気温が体温を超えるような猛暑日が続いているけれど、秋はもうすぐそこまでやって来ているのだろうか。そんなことを考えて、少しばかり涼しげな気持ちになった。うろこ雲が教えてくれる空の高さ。その青と白の調和に映える百日紅の花。うろこ雲は秋の季語、百日紅は夏の季語である。空の季節はひと足先に巡って、地上の我々に次の季節の訪れを予告してくれるのかもしれない。
我々に季節を感じさせるものといえば様々あるが、そのほとんどは地上の世界に存在する。山や川、そしてそこに息づく動植物たちである。だが、それら全体を大きく覆う空も、季節を映し出すものとして忘れてはならないであろう。いま私は「空が季節を映し出す」と書いたが、いや、そうではなくて、地上の四季は空が創りだすのではないか、という気さえする。
コンクリートやアスファルトがどれだけ地上を覆おうと、見上げればいつもそこには空がある。空がある限り、季節はなくならない。そんなふうに思った。
そういえば、先週も季節感について書いた。月曜日は週の始まりということもあって、なんとなく気だるいという読者も多いことだろう(私もその一人である)。そこでという訳ではないが、これから毎週月曜日は、ほっと一息つけるような季節の話題をお届けすることにしよう。
「愛は地球を救う」という言葉がよくきかれたのはいつだったろうか。
この言葉は私にはスッと入ってはこなかった。
愛って何なのか。愛「で」地球を救う、ではだめなのか?
しかし、「愛」を「信じる」に置き換えると、自分の場合ピンとくる。
この場合、地球を救うというより、自分を救うといった方が的確な気もするが。
どうも、信じるという観念(?)なしに愛なんてないように思えてくる。
…ふと思いついたことをそのまま書いてしまった。乱文ご容赦。
子ども向けに世界の名作が編集、出版されることは多い。三国志やハムレット…。古今東西様々なものが平易に書き直されている。そういった形でかつて読んだ本に「ロビンソン・クルーソー」があるのだが、先日原版の日本語訳を見つけ、興味本意から上下巻を読んでみた。
スピッツの曲「ロビンソン」には「誰も触れない 二人だけの国」という歌詞があるが、ロビンソン・クルーソーといえば「無人島で、仲間はほぼゼロでの生活」がふつう挙げられる特徴だろう。読んだことが無くてもその点は知っている人も多い。しかし、その描写は五割に満たないのである。上巻の時点で無人島を脱出して、その後に中国まで至る航海、さらに陸路イギリスへ戻るという大きな旅をしている(この時ロビンソンは六十歳をこえている)。
この物語はJ・ウ゛ェルヌの書くような冒険ファンタジーと同じカテゴリーに入るものではない。なぜならその主題は「経済」と「宗教」、それも作者D・デフォーの生きた時代の特徴たる重商主義、ピューリタンの社会台頭の流れに即したものである。とりわけ小説としてロビンソンの内面を考察すると、ほぼ宗教物語である。キリスト教を信じない者は「未開」、そしてその人々にキリスト教を広めることは「明白なる天命」、という考えが随所に現れる。かつ、ロビンソンもはじめは信仰の薄い軽薄な人間として描かれ、それが「神の恵みにより」無人島で生き延び、その後の苦難も乗り越えた、と考えるような敬虔な信者になっていく。また、当時ならではの「東洋」などに対し地域的な強烈な偏見描写も、特に後半は多数見られ、(例:「日本人は嘘つきで残酷で陰険な国民だ」下巻 P311)この作品は現在の人々には、キリスト教に興味のない人はなおさら、伝わりにくいものといえる。
もちろん、当時の目線を持つか、独特の発想を評価するということであれば、充分文学として名作と言えよう。ただ、子ども向けに編集したものは、内在する宗教の大きさや偏見を覆い、毒だけ抜いた妙なものになっていて、どうもいただけないと考えてしまう。
この文で私がやりたかったことは何か。先週書いた「ウケを狙わない読書感想文」の実践である。お粗末。
「あなたはプラトンという思想家を知っていますか?」
有名な人物ですから多くの人は知っていると答えるでしょう。「それではそのプラトンという思想家は一体どういう人ですか?」―こう問われると人は、彼の思想内容や歴史的背景を説明したり、『ソクラテスの弁明』や『国家』などの彼の代表的著作を挙げたりして、プラトンについて「知っている」ことを並べ立てます。そこで最後の質問です。「あなたはプラトンの存在を信じていますか?」
人は困惑の表情を見せます。「プラトン」の部分に「神」や「霊魂」だとかいった単語の入った質問ならよく耳にしますが、プラトンなんて信じるとか信じないとかそういう対象ではない。でも先ほどプラトンについてあれこれ蘊蓄をたれてしまった手前、信じていないとも言えない。ここでひとつ我々がプラトンの存在を信じていることを示してみましょう。
我々がプラトンを信じるためには、プラトンという人が居たことを我々に直接証言した者たちを信じなければなりません。代表的なメディアは歴史の教科書でしょう。我々は歴史の教科書を信じることで、プラトンの存在を信じます。そして歴史の教科書を信じるためには、それを書いた何処かの偉い先生を信じなければなりません。さらに、その偉い先生を信じるためには、先生が依拠しておられる歴史学の体系を信じなければなりません。歴史学の体系を信用するためには、その歴史学の方法を信用しなければなりません!
しかしながら、私たちはそんなに遠い手続きを経てまでプラトンの存在を信じなければならないのでしょうか。プラトンがいようがいまいが我々の生活には何の関わりもないというのに!ここまで考えが至ったとき、私には科学(人文科学含む)という装置が、我々の「信じる」という行為を代行しているような、擬人的なイメージが浮かびます。我々は科学を「知る」ことで、世界に関する事柄を「信じ」なくてもすむようにさせられているのです。よって、科学によって証明され得ない「神」や「霊魂」に対してだけ「信じる」という動詞が使われるのです。
しかしながら、近頃の情報化によって、科学までもが「信じる」対象になっている印象が私にはあります。情報が溢れかえることで本物の科学と贋物の科学とを見分ける必要が出てくるのです。
科学革命以来の近代人が情報を適切に扱うためには「信じる」という行為の作用をもう一度見直してみてもよいのではないかと、一人の文系学生は妄言を吐くのでありました。
先日、部屋の片付けをしていたところ、以前に自分自身が書いた感想文、小論文、交換日記(懐かしい響きである)といったものが大量に出てきた。いつも片付け中にこのようなものが出てくると、どうしても読み返してしまい、なかなか片付けが終わらなくなってしまうのだが、この時の私も例外ではなかった。
読み返してみると、稚拙な文章の並びに、なんとも恥ずかしい思いがした。だが、その反面、確かにその文章を書いたのは過去の自分自身であるのに、今の自分には到底思いつかないような考えが並んでいることが、不思議であり、面白くもあった。そういえば、友人は捨てるつもりだった過去の自分の日記を読み返して、捨てるのをやめたとか言っていたなぁ。そんなことを思い出す頃には、読み返し始めたときに感じた、捨ててしまいたいという衝動はなくなっていた。
人間は、人との出会い、環境、自分の経験等を通して考え方が変わっていく。だからこそ、きっとその瞬間の自分自身にしか抱くことのできない思いや考え方があるのだろう。
これからは、些細なことでも構わないから、自分のその時の思いや考えを文章として残していこうと思った。 先日読んだ「日本語の本質」なる司馬遼太郎氏の対談集に、「愛しているよ。」や「感謝いたします。」という言葉遣いは非常に抽象的で自分の状態を客観的に説明していて、変な感じを受ける。とあった。これはフォーマルな文語であり、こういった公的言語が方言などの私的言語に干渉してきている・・・・・・と本文は続いてゆく。
確かに標準語は感情表現が難しい、大変ものものしくなる。(ここで言う標準語は、関東弁ではなく明治に国家が統一言語として定めたものを言う)もちろんこれは標準語がいけないというのではなく、論理的な言語を目指して作られたものだから当然のことだ。
あなたが将来研究者になって「~が分かってん。」と論文発表はしないだろう。しかしもしかすると、恋人に対して「愛しているよ。」とは言うかもしれない。だが、それは少し違う。あなたが恋人を愛していることは明白になっても感情は伝わるだろうか。ある人の言葉を借りると、純情な感情は1/3も伝わらないというわけだ(笑)。もっと適切な私的言語があるのではないか。ここではあなたが育ってきた土地・環境の、そしてあなたらしい言葉で「愛しているよ。」を変換しなければならない。ベタベタ方言でという訳ではないが、やはり感情表現にはその人の人生に裏打ちされた「自分の言葉」が出てくるのが理想だ。その言葉で人に気持を伝えたい。公的言語と私的言語の両方を遣いこなせる豊かな人間になりたい。
私はそんなことを考えながら市バスを降りた。その時運転手さんが、第三者的な「感謝します。」ではなく「おおきに。」と言ってくれた。そしてその笑顔もやはり「おおきに。」に相応しい笑顔だった。ああ、素敵だなぁ。なんだかとてもいとおしくなった。