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その日、私は講義が行われている最中の講義室で堂々と昼寝をこいていた。そのことの道徳的問題は、とりあえず今は問わないでいただきたい。そして、これから私が述べる、論理的を装ってその実だらだらと長いだけの文章は、私が経験した不思議な夢を強引に説明するための私の勝手な妄想に過ぎないことをお断りしておく。夢のメカニズムに関してはちゃんとした研究がほかに何なとあるはずである。
講義中の昼寝には独特の面白みがあって、なんとなれば講義の音声情報が耳に流れ入り続けるため、その情報が脳内でイメージの連鎖を起こし、結局現実の場面に近い夢の世界が構築されやすい。すなわち、夢の中でもまた現実と同じように講義を聞いていることになる。夢中の人間はその夢を現実と思いやすい傾向にあるもので、私は夢の中でもまだ眠たかったため、またぞろ机に突っ伏して寝てしまった。こうして2次の夢がやってくる。1次の睡眠が2次の覚醒である。帰納法的にn次の夢がやってくる。こうなると「夢か現実か」などという一元的対立は意味を成さない。n次とn-1次の差も、1次と0次の差もたいした違いではないのだ。
ところで、0次から1次への移行の際に、0次の聴覚が1次の意識感覚に作用を及ぼしたように、夢を行き来している途中で自分の感覚の一部が別の次元に置き去りにされ、感覚全体がちぐはぐになることがある。金縛りなどはおそらくその一種なのであろう。私は金縛りにあったことはないが、その日の私の居眠りの場合、視覚を一つ下の次に置き去りにし(眠っていながら目で見ることが可能なのはその下の次も夢だからである)、運動感覚は上の次にあった。するとどうなるか。上体をむくっと起こしてみても、目に映る画像の方が全く動かなかったのだ。驚いた。単純に「死んだのだ」と思った。幽体離脱という言葉が浮かんだが、幽体離脱だって視覚と運動感覚が一体になって自由に動き回れるはずである。本当に、全く未知の感覚だった。
デイリー孝太郎の記事は匿名で書かれる以上、一般性の強い話題を持ち出すのが普通である。しかし、今回、どうしてもまとまった文章に残しておきたい体験だったため、この場を借りて個人的な備忘録にしてしまった。大して面白くもないのに。ごめんなさい。同じような夢を見たことのある方がいらっしゃれば、是非お聞かせ頂きたいものです。