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 話がかみ合わなかったり、相手の意見を理解できなかったりしたとき、「ま、私はあなたとは文化が違うから」とか「あの人とは考え方が違うのよねえ」などと言う人がいる。私はこれらの言葉がとても嫌である。今回は特別に2日続けて書かせていただくことにして、これらの言葉をスタートにごちゃごちゃならべてみたい。
 さて、上に挙げた言葉は他者とのかかわりにおいて一種のあきらめを示している。「違うのよねえ」の後には、大抵の場合何の進展もない。それどころか、相手を卑下するかのように、せせら笑いながら言われるのを何度も見聴きしてきた経験からすれば、これは他者との理解を深めるということとは正反対の行いであると思う。
 もともと、「文化の相違」を認めるか否かは重要な問題である。自分の(価値)基準(あるいは規範)に照らして、どのような物事にもそれに従って取り組むという人はあまりいない。もしそうすれば、他人との関係が破壊されることさえあるかもしれない。どちらの「文化」が優れているか、あるいは正しいか、ということはただちに判断されうることではないし(というより、相対主義の立場で言えば、判断するための客観的基準がない)、「違うのだ」ということを前提に議論が進められるのは至極妥当なことである。
 「違うのだ」という認識は自分にとって利益となる。すなわち、自分自身の価値観やなんらかの判断基準が絶対的であると考えるのは危険であるからだ。それに、他人(もっとひろげて社会とか民族のレベルで考えた方がわかりやすいかもしれない)の「文化」(とか慣習とか)に対して干渉的であることは争いを生みやすい。
 ところが、「違うのだ」が思わぬところで障害となっていることがある。
 何か。
 「ホントは違わないのかもしれない」というときである。

(明日へつづく)
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