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以前「通りすがり」という詩をこのページに掲載しました。服についた草の実からの詩だったのですが、同じような題材から山村暮鳥が作った詩を見つけました。著作権の心配があるのですが、死後50年は経っているので…
憎悪のなかにも…… 山村暮鳥
憎悪のなかにも愛がある
その愛をたふとめ
あるとき
着物についた草の実が
しみじみと自分に
この一つのことを気附かせた
簡潔です。少し説明っぽいです。ですがいい詩だと思います。同じくっついた草の実でもこの表現の深さは前述の戯れ詩より格段にあります。
詩と詩でないものの区分についてはよく悩むところです。同じように、詩人と詩人でない人の区分も難しいです。例えば草の実がくっついたとき、「もう、いややわぁ、払うのめんど。」と言いながらひたすら取り払う人は詩人ではないのでしょうか。極めて、一般的な対応。何となく「かたくななるもの」という言葉が当てはまりそうな雰囲気ではあります。しかし、ここから詩は生まれないものでしょうか。興味関心が詩に向かわなかっただけではないかと思ったりします。
そして、これが詩人でないなら、それ以外の対応をした人は詩人なのでしょうか。例えば前述の戯れ詩を作った者は詩人でしょうか。山村暮鳥は挙げたような詩を同じ題から紡いでいる。そう思うと、極めて一般、平凡な感情を連で分けて書いただけのように思われてもおかしくありません。
寺山修司の言葉に「人は一生に一度だけ詩人になる」というものがあります。造詣の深い言葉。これを思うごとにまた、詩人ってなんだろうと悩んでしまうのです。誰もが詩人に見えて、誰も詩人でないのではないか、と訳の分からないことに落ち着いたのは1度や2度ではありません。
本を読まない人が本を論じても達するところは限られるでしょう。ですので、戯れ詩でもまた書いて、考えてみようかと思うのです。