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(昨日の続き)
表面的な部分において違ってはいても、基本的なところでは多く共通しているということがある。このようなときには、やはり「違うのだ」はかえって邪魔で、不必要な意識であるとも言えるかもしれない。少しずれた話になってしまうが、自分がこれまで参加してきた話し合い、会議、テレビで見る討論などで意見が対立して両者が言い争ったりしているとき、よく話をきいてみると実は互いに思っていることはだいたい同じであるのではないかと思うことが多くあった。議論とはよくわからないものだ。
さて、そもそも一種の常識であったはずの「違う」の認識であるが、少なくとも私の周りの様子からすれば、なんとも困った事態を引き起こしている。
さきに、「違うのだ」は他人への過干渉を防ぐ性質もある、といったことを述べた。これは他者への寛容であり、軽蔑しない方が良いと考えるからだが、実際、最初に書いた「あの人とは違うから」は、正反対の結果をもたらしているようにみえる。一見「大人な」対処の言葉であるが、使いようによって、残酷とも思える効果をもっている。
我々の生活のレベルから、世界の平和云々のレベルまで、いろいろな場面で、他者を理解すること、通じ合うことが求められ、求めようとする人がいる。そしてそれが達成されない困難がある。その困難を思い、そのような他者とのかかわりを避けて、自分の楽なふうにしかしない、という傾向が自分にはないだろうか。
不躾な「違うから」をきくとき、「不可能とわかっていてもそれを追い求める、それが人間だ」、なんてことまでは言わずとも、せめて話くらいきいてくれ、と思う。私もちゃんと話すから。