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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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三寒四温、寒い日が3日、温かい日が4日続きながらやっと春がやって来るという意の四字熟語です。最近そのような気候だと感じます。
寒暖の差が激しいと風邪もひきやすくなるので、みなさんお気をつけください!
最近はバイトと遊びにふけってしまい、感受性の衰えを感じます。孝太郎に書く文章も頭に浮かばない日々です・・・。しかし、悪くとらえず、春の陽気ととってしばらく休みを満喫しようかなと思います。みなさんも春うららかにお過ごしください。
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ストランヴィンスキーという作曲家の「火の鳥」という曲があって(バレエ組曲ですが)、僕はそれが好きで、いつかあれのCDがほしいな、と長いこと思ってきたんですが、1000円ちょっとの割と手ごろなものではあったけれどもなかなか手が出せず、「在庫処分のため15%引」となってやっと今日、ええい買っちまえ!と手を出しました。(バーンスタイン指揮:春の祭典/火の鳥(1919年版)

「春の祭典」の方は、これも前から何度か聞いたことはありましたが、まったく理解できていなくて、だいぶ久し振りにちゃんときいて、こんな曲だったのか!面白いやん!と、思いましたね。

認識を改めるというと、こんなこともありました。

実は火の鳥はN響アワーという番組でやっていたのを録画してあって、今まではそっちを見て聞いていて、しかもそれがストラヴィンスキー自身の指揮(1945年版)だったり、1919年版の映像も見れたりとなかなかお気に入りのものなんですが、というか多分これを見て好きになったんだったと思いますが、これを今回また引っ張り出してみてみたわけなんですね。

はじめは、バーンスタインのCDを買って、ワクワクしながら帰って、それから何度かきいて、やっぱりすごいな!なんて思ってて、その後、そうだあのビデオのと聴き比べてみよう、となった。で、ビデオにとってあったのをきいて(すなわち同じ曲だが3種類聴いたことになる)、これがやはり違うもので、いろいろ感じて、なんとなく満足感を得つつ、自分はバーンスタインのが好きだな、と思って、CDをかけてみたら不意打ちをくらった。さっき聞いてたバーンスタインのと違う音楽が聞こえてきたんです。3タイプ順番に聞いていったら、自分の中で(まったく同じ演奏なのに)火の鳥を姿が変わってみえた、と。

だから何なの、と言われると、まだ僕にはよくわからないけれど、なんかいろんなことを含んだ体験ではないかな、と思うんですよ。ね。音楽という範囲で考えるなら、録音とライブとの相違に関する問題に通じそうでもあるし。何か教訓めいたこともこれから言えそうではないですか。まぁでもそんなこと考えるのも、野暮というか、あまり良いとは思わないですが。

 2月のことを「光の春」と形容することがあると,先日天声人語で読みました。とても興味を惹かれたので,ちょっと書いてみます。光の春。冬の寒さ厳しい2月,風は冷たく雪に閉ざされる,そんな中で光だけは暖かさを増し,そして日もだんだんと長くなる。そんな様子を表しているのでしょう。

 

 命にあふれた春という季節を,光の視座から捉えたこの表現,美しいです。命煌く,などのように輝きをもって語られるのは一般にも見られますが,それが季節の次元にまでくると面白い。命あふれる春。桜は咲き,虫は活動をはじめ,若草色の風が吹く。月並み。

 

 でも春が命にあふれるなどと言われるのはそういった月並み描写から来たものではないように感じました。火の鳥伝説のような未来永劫繰り返される命,輪廻転生,まわり続ける命,それをバックに持つからこそ春は命にあふれると感じました。命は予断無く繰り返されているわけで,でも普段実感しない。そんな中,春になると常緑の,常に形の変わらない山々のような情景に霞がかかり,はかない桜が咲き,小さい虫たちが這い出る。そしてそれ以前に光は,弱くなった冬を乗り切って再び力を増し,それを人々は無意識に感じているわけです。それらが2月からだんだんと行われ,意識的には3月4月になってようやく春を感じる,という感じです。

 

 命を語ると宗教じみて嫌ですね。でも光の春ということばからは何かそういった心象スケッチが見えてくるような気がします。

 今年一月、広辞苑が10年ぶりに改訂され、第六版が発行された。いろいろの新語が追加されたとかで話題になっていたが、私などは辞書が本屋の入り口に近いところ、ポスターとともに置いてあるというその状況が何となく新鮮で面白みを感じてしまう。
 思えばこの10年の間に電子辞書が随分と普及した。それどころかいまや携帯電話やウェブ上でも手軽に辞書が引けてしまう。情報化という言葉ともぴったり来る現象であるが、いまや知識は、あらゆるハードに偏在してしまっていて、というかあらゆる場所からアクセス可能なものになってしまっていて、有り難みを失くしたように思うのである。そこへ来て今回の広辞苑改訂。何となく時代感覚から外れていて快いものがある。
 紙にチタンを使うことでページ数は五版から増えたものの、本全体は薄くなっている、というエピソードも私の心を刺激した。唯物論ではないが、形而上的知識が物質の基礎の上に立っているという感覚は、どこか我々を安心させるところが無いだろうか。今度本屋に立ち寄った際には是非とも広辞苑を持ち上げてみて、「知識の重み」を実感してみて欲しい。
 とはいえ今後新しい電子辞書には勿論第六版の広辞苑が収録されることになるだろう。あまり時代の進歩を嫌ってばかりいるわけにもいかないなとも思う。

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急いでアップしたために明らかな文章のミスがありましたので改訂しました。(2/23 金曜担当者)

梅田望夫氏の「ウェブ進化論」、梅田氏と作家の平野啓一郎の対談「ウェブ人間論」という二つの新書がある。前者の方が先に出ていて、後者はそれをふまえた対談本となっている。

本当の大変化はこれから始まる、という副題のついた梅田氏の本は、ウェブ社会と、それとリアル社会との関係から、ウェブ時代における新現象まで丁寧に説明しながら、変化にどう対処するか、ということが説かれている。

10年以上シリコンバレーに在住している氏の文章は、単にウェブ社会に関する知識を得ようという人にとっても有用であるとともに、これまでの「ウェブ」に対する考え方を改めさせられるような力を持っている。これまで自分がウェブとかインターネットというものにネガティブなイメージを抱いていたのが、まるで幼稚で頑固な(というより無知のための)ものだったと感じられる。

思うに我々はもはやインターネットなしには不便でならない世の中にいる。そして、「ウェブ社会」というものにさまざまものが移行してゆく、というよりむしろそこに新たにいろいろ生じてき、それが我々にとって大きな存在となってくる。「あちら側」に独特な世界の仕組みとはどんなものであるのか?それに対してどう対処すればよいのか?身近であり、自ら“参加する”ものについて氏の視点から見てみるのはなかなか有意義である。

後者の対談本は、平野氏が、梅田氏と、自分の体験や意見を述べ合っている。「進化論」とあわせて読むと面白い。

先週はお休みしてしまってすいません。

冬は寒いんだ、と改めて感じられる日々が続いております。最近は耳が冷えるので、ラビットファーのイヤーマフを愛用しています。体の末端部分をあたためると体全体にもあたたかさを感じることができますよ。
イヤーマフで耳を押さえることによって、外界の音もかなり遮断されます。車の騒音や人混みと自分との隔たりからか、なんだかたった1人でいるような感じを覚えたりするのです。
個人的には1人になりたいと思う時があるので心地の良い時間となっています。しかし、1人になれる時間は寒空の下、誰かに会いに行くほんの2、30分でいいかなと思うのです。一人暮らししたい!と思っても、結局は誰かと自由に会える時間が欲しいだけだったり。
人恋しく感じられる冬の寒さに、人との繋がりをより一層大事にしたいなと思います。一方通行なこの記事も、誰かと繋がっていると嬉しいです。ではみなさんまた来週にでも。

 

近頃、謝罪会見というやつが非常に多いように思う。テレビでもよくそう言われている。

きくところによれば、謝罪マニュアルなんてものも存在するらしいし、トップにいる人間には「謝罪力」が必要だなどということもきかれる。

数日前、夕方の番組で、何か問題を起こした企業の責任者(と思われる人)が、「謝罪会見」をしている映像をみたのだが、その中で、その人は、「…で、まことに遺憾であるとともに残念で…」といった言葉を発していた。すなわち、「とても残念で、且つ残念である」というわけである。いったいどういうつもりで言ったのだろうか。

遺憾という言葉は、特に政治家の口からきかれることが多いと思う。どこかであった事件について、記者が総理大臣に訊いたときなど。

この言葉は、岩波国語辞典をひくと「思い通りでなく残念なこと」とある。この意味しか私は知らないので、上の会見を見た時も「?」となったのだ。しかし、ある調査によれば、割と多くの人が、「遺憾」を「謝罪」だと思っているらしい。

上の会見での発言者がどういうつもりで言ったかはわからないが、私は謝られたとは感じない。言葉の意味は時とともに変わっていくものであるというのは確かだと思うが、少なくとも、謝罪したいなら、「遺憾」という言葉以外にもっとあると思う。受け取る側としては、基本的には、「遺憾」に誤魔化されないように、と少し思って見るくらいの方が良いかもしれない。

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