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桜が散った。大小の枝からは、初々しい薄緑の若葉が萌え出でている。だんだんと日も長くなり、早くも初夏の訪れかと気ばかりが急く。
しかしよくよく見てみると、どの桜木もまだうっすらと赤味がかった面持ちを呈していることに気づかされる。赤味の正体は、桜の蕊(しべ)である。
「桜が散る」と言うとき、我々はふつう桜の花びら(花弁)が散ることを思い浮かべている。が、それは実は第一段階にすぎない。花びらが散り終わった後も、桜の枝先には蕊(おそらく“おしべ”)が残っているのだ。花びらと同様、蕊もやはり桜色をしている。だから桜吹雪がひと段落しても、蕊がまだ残っている桜木は全体として赤味を帯びて見えるのである。
春も終りに差し掛かったころ、ついにこの蕊も地に落ちる。これを昔の人は「桜蕊降る」と表現した。そんなことを高校の古文の授業で習った。
過ぎたりし我が世の春の思ひでを忘れむとてか桜蕊ふる
その話を聞いて詠んだ私の歌である。
桜は実にはかなく散る。我々は散りゆく桜花を見て、ある種の嘆息感を味わう。その嘆息感は、蕊の残った木を見るたびごとに繰り返し再現されるのである。木に残された蕊は、少し前まではそこに桜が咲いていたという証拠であり、それはそのまま、はかなく散った桜花の名残でもあるからである。
しかし蕊が落ちてしまえば、桜木には青々と葉が茂り、何事もなかったかのように季節は過ぎてゆく。桜が咲いて、そして散っていったことを思い出す人など、もはやいなくなる。そういう意味では、「桜蕊降る」という現象は「無常を超えた無常」と捉えられるかもしれない。「桜が散る…嗚呼なんとはかない…」という感慨さえもはかなく散ってしまう。そんな、一段高い所にある無常観を桜の蕊は教えてくれている気がする。