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「ちょっといいことをした気分」のように、軽い意味でつかわれる「イイコト」という言葉がある。それが指し示す内容は場面によってさまざまだが、例えば「お年寄りに座席を譲る」といった行為が代表例だろう。

バス通学の私は、毎日のように「イイコト」の交錯を目にする。満員のバスの中で、乗客は少ない座席を譲り合っている。その多くは、たしかに素直な気持ちで「良い事」として受け止められる行為である。しかし、「イイコト」を逆手に取ったり、「良い」かどうかとは別の思惑を持って「イイコト」を為したりというありさまが散見されることもまた事実である。

いちばんよくあるのが、「イイコト」をして優位に立とうとする行為である。座っていたお年寄りが、同い年かいくらか若く見えるお年寄りに席を譲ろうとする。「けっこうです、ありがとう」と言われても、強引に座らせてしまう。譲られたほうが申し訳なさそうな顔で小さくなって座っているその横で、「イイコト」をしたお年寄りは誇らしげな顔をしている。

また、その逆もしばしば発生する。お年寄りには違いないけれどまだ十分元気に歩いているような人が、そこのけそこのけと言わんばかりに立っている乗客を押しのけて空いた座席に直行する光景をよく目にする。若い人が座っている席の横に立って、「どこに座ろうか」とつぶやいている人もいる。先日見たのはこんな一幕だった。途中で乗ってきたお年寄りの女性が、後部座席にいた若い女性に自分から声をかけて席を譲ってもらった。曇った顔で立ちあがったその若い女性を見ると、彼女は明らかに妊婦だった。

「お年寄りに席を譲る」ことは、行為そのものを純粋に見れば、すばらしいことに違いはない。しかし、いったん「イイコト」といて定型化すると、それは複雑な意味を含んだある種の象徴記号として働き、人々の行動に別な影響を及ぼしうる。そうなると、もはや「イイコト」は「良い事」ではない。

そもそも善悪というものは、理性や道徳を持ち出してもそう簡単に判断できるものではないし、できたとしても大変デリケートな問題である。私が目撃した最後の例も、一筋縄ではいかないとても難しい問題を孕んでいると思う。型にはまった「イイコト」はわかりやすい反面、あぶなっかしい一面を持っていることも忘れてはならない。

私の場合は、座席が埋まっている状態でお年寄りが乗ってきたら、黙って席を立つようにしている。何が良い事なのか、もう少しよく考えてみないことには、私にはわかりそうにない。

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