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「人の目に私の演技と映るものが私にとっては本質に還ろうという要求の表れであり、人の目に自然な私と映るものこそ私の演技であるというメカニズムを、このころからおぼろげに私は理解しはじめていた。」(三島由紀夫/仮面の告白より)
私って何なのだろう。というある意味哲学的で高尚な、そして他のある意味では自我を見出せない幼い、感覚に時々襲われる。
今こうして昔の自分を振り返ると、小学校に入る前、私は思った通りに行動したし考えた通りの言葉を口にしていた。しかし、成長を経て、知らないうちに「本音」と「建前」を使い分けるようになっていた自分に気づかされる。
しかも、それは表と裏の単純な構造ではないのだ。他人の前で本音とは裏腹の演技をひとつする、するとその後の私は演技をする前とは異なった人格を持っているのだ。ほんの少しずつ人格が変わってゆく。それはまるで、魚が体内に有害物質を長年かけて蓄積していくように。それはまるで、はじめについた嘘を守るために新たな嘘で塗り重ねていくように。
そんな自分を嫌いになりそうにもなった。しかし、その人格変化はそもそも良いものなのか悪いものなのか。自分の力で考えて選択した演技なら良いのかなぁ。変化の速さが自身のついて行ける程度のものなら構わないのかなぁ。本音と建前両方の要素があってこその私なのかなぁ。
たとえば、親の期待に応えるために演技をし続け、結果的に自分の意思を失ってしまうような「演技」ではない。思いやりから発したり、自制心から発したり・・・きっとコミュニケーションにおける演技は私を成長させるものだろう。
自分に言い聞かせてみる。本質と演技が並走しているうちは大丈夫、本質をおいてけぼりにさえしなければ、むしろ有益なことかもしれない。