05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
教官の案内で、大学の経済学部図書室を見学する機会があった。開架と書庫の両方があって、うろ覚えの数字だが、開架には約5万冊、書庫には約46万冊の本があるということだった。
入口を入ってすぐの開架スペースは、変哲のない「図書館」であったが、一歩書庫に足を踏み入れると、そこは独特の雰囲気を呈する不思議な空間だった。年季の入った本のにおい、靴音の響く感じ、埃っぽくよどんだ空気……どれも気分を高揚させる魅力的なものだった。
特に興味深く見学したのが、別館にある貴重書庫だった。地下二階にあり、入口は強化アクリルの扉で固く閉ざされている。照明は、人が中にいる時以外は消しておかなければならない。さらに、地下は湿度が高いため、24時間除湿機が稼働し、書庫内は低湿度に保たれている。
さっそく出迎えてくれたのはアダム・スミス『国富論』の原本だった。現代の書籍と比べるとかなり大型で、豪華な革装丁である。200年以上前のものにも拘らず、活字はしっかりしていて十分判読できる状態だった。この本は英語で書かれているから、私でも自分の語彙の及ぶ範囲で読解することも可能だった。
さらに古いものとしては、トマス・アクィナスの『神学大全』があった。こちらはラテン語の本で、おまけに古い時代の装飾的な活字で印刷されているから、内容はさっぱりわからない。ともあれ、「本物だ」という感慨はひとしおであった。面白かったのは、欄外に手書きの書き込みがあったことである。この本の所有者であった13世紀の人間が、思いつきや疑問点などを書き留めたメモに違いない。彼は21世紀の学生が自分の走り書きを目にするなどと想像したろうか。
日本のものとしては、山方蟠桃『夢の代』の写本や、福沢諭吉『文明論之概略』等があった。江戸や明治に生きていたわけでもないのに、なんとなく「懐かしい」という感情が湧いてくるのが不思議だった。
「私は17世紀ヨーロッパの研究をしているから、その時代の書物に慣れっこになって、それより後の時代の本を見ても、割と新しい本じゃないかと思っちゃうんです。」案内してくれた教官はそう言っていた。実際そうなのかもしれない。貴重書庫には「貴重書」がずらっと並んでいる。ここにいる限り、貴重書はもはや「貴重」ではない。何かしら神々しいイメージを抱いて書庫に入った私もいつしか、中世や近世の人々と打ち解けておしゃべりしているような、やすらぎに似たものを感じていた。