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象徴の帝国
昨日、京都観世会五月例会を観に行った。映像では幾度か見たことがあっても、能を生で観るのは初めてで、大変良い経験になった。
午前十時半から午後四時までという長丁場で、能が三演目、狂言が一演目、仕舞が三つという構成だった。能は「敦盛」、「隅田川」および「鵜飼」で、狂言は「千鳥」が上演された。
まず、とても長いと感じた。「敦盛」は、熊谷直実に討たれた平敦盛が出家した直実の前にいろいろなかたちで現れる話。「隅田川」は子を失った狂女が塚の前で祈ると子どもの幽霊が出てくる話。「鵜飼」は鵜を遣ってたくさんの魚を殺した鵜飼が法華経の力で救われるという話である。ずいぶん荒削りの要約だが、実際ストーリーとしてはいずれもこの程度である。図書館で借りた謡曲集を見ても、それぞれ10ページそこそこの分量にすぎない。しかし、能の一演目は一時間以上かけて演じられる。単純な筋の中に色とりどりの要素が巧みに組み込まれていることの証拠である。謡・囃子・舞……。これらが絡み合って錦織のような芸術が完成しているのだ。
そして、なによりも、とても抽象的な舞台だった。象徴的と言っても良い。戦闘シーン、舟中のシーン、地獄のシーンなどがあったが、当然ながら手に持つ小道具以外の舞台装置はほとんどない。演者は「かくかくしかじかのシーンだと思え」というメッセージを動きや音楽を通して観客に発信し、客は自らの努力で「かくかくしかじかのシーンだ」と思わなければならない。そういう意味では、観客にとって能という芸能は、積極的に参加できるものであるし、また同時に積極参加を余儀なくさせられるものであるといえるだろう。
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