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人は最終的に哲学に行きつく、というようなことを考えながら歩いていた。どんな仕事をしていても、家族とか社会とか自分とか、そういった根本的な問題にぶちあたらない人はいない。そんなとき、哲学科を出たようなやつは、「カントによればかくかくだけど、マルクスによればしかじかだよ」などと知ったような口をきくかもしれないが、「じゃあ、君自身によれば?」という返しにはめっぽう弱いに違いない。

哲学とは、「体系化されたことば」である。であるから、哲学のある人とは、「体系化されたことばを持っている人」のことを指す。他者の言葉をどれだけ記憶しているかという問題とは根本的に次元が違う。抜け目なく「体系化されたことば」は世界を説明する。大概の事ならば、どんな質問をされても、哲学のある人は即座に自らの体系座標の中にその問題をプロットし、的確な解答を導くであろう。

西田幾多郎は思想家の全集というものをひとつも持っていなかったという。全集を買わずとも、その人の文章を数篇読めば、その他の問題に対して彼/彼女がどのように答えるか全てわかってしまうからだ。実際哲学とはそのようなものであろうと思う。すなわち、「私の哲学とはかくかくしかじか、うんぬんかんぬん…」というのが無数にあるわけではなく、その人の哲学という大きなひとつのものが存在していて、それでもって様々な問題に相対するのである。

「哲学」の筆者が言う「行動」がどのあたりまでを指すのかわからないが、私は「哲学のある」人の哲学が規定するのは、その人の問題解決方法であると思う。借り物思想の人間は、「あなたはどう思う?」「あなたならどうする?」という質問に弱い。したがって、特に自分自身に降りかかる問題が発生したとき、少しでも自分の哲学を持っているかどうかが、人生の明暗を分けることになりそうである。
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