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 「哲学のある人」というのに憧れる。「あの人の言葉には哲学があるよなア」と人に対して感心する例し、枚挙にいとまがない。
 こういう場合の「哲学」とは何であろう。大学で哲学を専攻したからといって身に付くようなステータスではない気がするし、「哲学のあるひと」というのはもっと日常的に、色んなところに紛れていそうな響きがある。
 紛れていそう。ここが恐らく重要である。
 例えばアリストテレス、デカルト、ニーチェ。こういった人類史にその名を残す哲学者たちに対して「哲学がある」という言葉はそぐわないように思う。彼らは「哲学がある」というよりもむしろ哲学そのものであって、その思想内容でしか我々は彼らを認識していないのだ。そうやって固まってしまった哲学はむしろ「思想」と呼ぶに相応しいもののような気がする。
 同時代人であっても、自身の哲学を強く誇示する人にあまり「哲学がある」という言葉はしっくりこない。その哲学を言葉にし現実を動かす力とした途端、それは思想性を帯びる。(もちろん、それが悪いというのでは全くない。思想がなくて現実が動かないのでは困る。)
 是によりて之をみるに、「哲学のある」人がその哲学を応用する範囲は自らの行動なのではなかろうか。換言すれば、自分の考えに裏打ちされた行動をする人に私は憧れを感じるのだ。借り物の思想で動く人に哲学はない。自ら幅広く考え、それに基づいて為された行動は、凜としていて自信に満ちていると同時に、例えばそれを人に正されたとしても素直に反省することができるのである。
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