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なんだか、とんでもないタイトルをつけてしまいましたね。残念ながら、とくにあの有名作に関する話ではありません。私はまだ読んですらいないのですから。
将来を思い描きます、普段使い慣れていない想像力をできるだけ働かせて。将来勉強したいこと、就きたい仕事、楽しみたい趣味、持ちたい家庭、理想的な人生の終幕・・・将来といえばこういったことしか思いつかないが、その限りにおいてめいっぱい想像をしてみます。もちろんその想像は一定の努力が伴えば、実現可能なことです。そういう意味で「想像」というより「予想」に近いものでしょう。私が長く生きれば生きるほどに、将来の予想は明確になってゆきます。これは当然のことなのです。小学生のころに描いた夢と現時点からみる将来像を比較すれば、そこにある現実性には大きな違いがあります。質という点で。将来像は年を重ねるごとにどんどん選択肢をせばめてゆきます。
私がこれから学ぼうとしている一つの分野についても同じことが言えるでしょう。法の根拠は正義です、では正義の根拠はどこにあるのでしょう?私たちの生活を包括的に規定する法は、西洋近代の生まれです。しかし前近代のそれと優劣がつけられるでしょうか?自然科学とは異なる論理構成で、争いを抽象化して具体例に還元します。この方法は正しいのでしょうか?そんなことを考えてみると、私が学ぼうとしているものはいったい現実世界においてどういう役割を占めているのか分からなくなります。専門的なことを学べば学ぶほど、多様性に満ちた現実世界か遠のいていく気がしてなかなか一歩が踏み出せません。学ぶにつれて選択肢が、視野が、せばまってゆく気がするのです。
将来も、学問も、全体を見る目が不可欠でしょう。今、自分がその世界のどこにいるのか、そしてどこに向かおうとしているのか、地に足を着けた自分とそれを上から見下ろすもう一人の自分が必要なのではないでしょうか。決して、そうすることによって多数派に付け!といっているわけでは無いのです。ただ自信を持った上で他者理解をするために、きっと大事なことなのだと思います。
私はまだまだ上から見下ろすための浮力を持っていません。そもそも地に足を着けてもいません。まだ靴を履きかけている途中です。靴を履いたら、とりあえずは草むらを掻き分けてみようかと思っています。掻き分けているうちに、上に飛び上がるための羽が見つかるかもしれない。