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最近いろいろと読み齧っては散らかしている。一章だけ読んだり,「よりみちパン!セ」のような少ないが濃い部類を読んだり。何かしら集中力が尽きているのかもしれない。そんな今日は中野孝次氏の「清貧の思想」を手にとった。この春から下宿にずーっと置いていたものである。散らかしてないで蓄積を消費しろ,と自分には言い聞かせていたのだが。
そんなわけでまだ読み出したばかりである。よって評など出来ない。だがこの本の大体方向性は察してもらえるのではないだろうか。物欲の時代における日本古来からある「清貧」の考えの再発見,という感じで始まる。ここでちょっとした疑問を思いついた。
何故「清貧」は尊いのか?である。堀口大學氏の詩の一説「晴れた日は散歩をしよう 貧しくば心に富もう」を思い出した。現代でもずいぶんの人が共感なり教訓なりを受け取るのではと思うが,何故物欲に生きることは背徳となり,貧しくも高潔な人は評価されるか。
人間原始の状態を考えてみると,所有こそは力であり,富めることとは最大の徳であったはずである。余剰生産力を手にした瞬間に身分が生まれた,身分の根拠とは蓄積された富である。いや蓄積された富が身分を生んだ。所有したい,富裕になりたい,とは生活のモチベーションとして唯一無双のものであり続けてもおかしくないのではないか。
それにアンチテーゼが生まれた。中野孝次氏も先の本の中で指摘する通り,宗教,身近な例では仏教である。一切の無常,魂と業の関係など,所有即ち富の思想の全くの逆である。その思想が様々に影響を与えてこの日本の伝統とされているものの一部(武士道や処々の家訓…)となっているように感じる。
しかし,根本的にこの発想は今語られている限り「悟った」という発生方法以外のものが出てこない。王室に育ったガウタマ・シッダールタは何故こう悟ることが出来たのだ?単なる逆転の発想なのだろうか。逆転とは死に近い生き方をすることにつながる。信仰の力を過小評価しているわけではない。しかし分からない。「悟った」では解決できない価値観創造の瞬間は宇宙の始まりにも似ている。