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 バスに乗っているといろんなことがある。これは日曜の昼下がり、バスで移動中の話である。
腰の曲がった乱髪のおばあさんが乗ってきて、私の後ろの席に座った。「はぁ、はぁ、よっこいしょ、よっこいしょ」とかなり大儀な様子だった。それだけなら何ということはないのだが、それから五分後、息が整ってきたそのおばあさんは、おもむろに法華経の題目を唱え始めた。
つぶやくような小さな声だが、しかしはっきりと聞こえる声で、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、……」と延々唱え続ける。面白いのと呆れ返るのと少し不気味なのとで、私はたいそう困惑した。題目以外の何か別の言葉も時折はさみながら、我を忘れたように「南無妙法蓮華経」は続く。バスの中が異様な雰囲気に包まれた。
法然の「南無阿弥陀仏」にしても日蓮の「南無妙法蓮華経」にしてもそうだが、私は「唱える」という行為を重要視する教えに、これまでいまひとつ説得力を感じてこなかった。「唱え」は形式的なもので、経典や教義全体の象徴でしかないと思っていた。しかしあのおばあさんの「南無妙法蓮華経」はそんな生半可なものではなかった。何を祈っていたのかは全く分からないが、とにかく必死に救いを求める感じ、唱えの魔力で事態をなんとかしてやろうという意志が強烈に伝わってきた。
同じ文句を何度も何度も繰り返す。その営みには想像をはるかに超えた力があるように思われる。繰り返す内容がどんなことであれ、無限再生されていく中で、その言葉は言葉以上の威力を持つに違いない。救いとして善きに働くこともあろうが、政治や宗教が濫用すれば悪しきに働くことも十分ありうる。唱えに引き込まれる前に、今一度身構えなければならない。
おばあさんは私より先にバスを降りた。タラップから歩道に下り、よたよたと歩き始めたおばあさんの口元は、相変わらず「南無妙法蓮華経」を唱えていた。彼女に救いのあらんことを祈るのみである。

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