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「自分が受けた教育の背景をずっと背負っていることを自覚しないといけない」と、教育学系の先生が講義の中で話したことがあります。どういうことかといいますと、盛んに言われる「子どもの問題」…虐め、学力低下、生活習慣など、世論一般で言われることだけでもキリがないですが、そう捉えている側、例えば我々ならどういう教育を受けてきたか。学級崩壊、当時で言う「登校拒否」など、それはそれで充分「荒れた」ものだった九十年代に児童時代を過ごしてきているではないか、ということです。ミクロに見れば個々で多種多様なバックグラウンドがあるでしょうが、マクロに見れば「そういう世代」です。また、もう一つ別の見方をしますと、競争競争と説く親世代(今の小学生くらいを長子にもつくらいの)はどういうバックがあるでしょうか。高度経済成長時代、受験が戦争化して少し後の時代とでもいいますか、その中で育った人々が今教育を提供する側になっています。そう考えると、もはや子どもに問題は還元しえません。筆者の好きな五味太郎さんの『大人問題』の決定的一文「結局、大人が問題なんですよね」を思い出します。言ってる筆者はモラトリアムとか言われる時期ですが。微妙ですが。
さて、先日、中教審の答申で、学習指導要領の改訂の方針が発表されました。代表的なところは脱ゆとり教育。週1時間の授業数増加、基礎学力の向上をねらう時間割に変える方向が確定のようです。おそらく、将来的に我々の世代は「ゆとり世代」と少なくとも教育界では扱われ続けるであろうことも確定で、方向性の違う学校の下で子を育てることになるのかもしれません。非常に短い間で、反動的とも見える形で終わるゆとり教育は、それでも確実に我々には行われました。これが意味するところは、我々がバックに持つことで示されていくのでしょう。