孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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何か、見たり、聴いたり、体験したことに対する感想を咄嗟に述べるとき、私は「よかった」という言葉を頻繁に用いる。しかし、「よい」という言葉は、自分が好感を持っているということを表すだけで、自分の中に生まれた感覚を的確に表すことができず、もどかしい思いをする。私は今まで、こういったもどかしい思いは、自分の中の語彙が少ないからだと思っていた。語彙が増え、自分の中でそれぞれの語の微妙な差異を知っていれば、自分の中に生まれた感覚を様々な語句を用いて的確に表すことができ、自分の中のもどかしい思いもなくなるだろう、と。
しかし、本当にそうだろうか。よく思い返してみれば「よい」というのは、無意識にでた言葉であって、自らの語彙から意識的に選択したものではない。自分の中で生まれた感覚を分析して、その分析に当てはまるような表現を、自分の語彙の中から選択して述べたとしても、私には、最初に出てきた「よい」に込められた感覚とは違うものを表現しているように思えてしまう。
結局、自分の中に生まれた感覚というのは、言葉には表せないものなのかもしれない。突発的に自分の感覚を表現した「よい」という言葉は曖昧で、自分の中の感覚にしっくりとこない。だから、表現を突き詰めていって自分の中の感覚を的確に表そうとするが、言葉を尽くしたところで、その表現は最初に生まれた感覚とは違うような気がして、今度は「よい」という曖昧な部分が多い言葉こそ、自分の感覚にぴったり当てはまっているように思えてしまう。こんな延々と続きそうな循環を繰り返しているうちに、私は言葉というものに振り回されている感覚に陥った。
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