孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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例えば今はマサイ族を見ると、彼らも我々と同じ人間であると一応考えることが出来る。しかしこのように考えることができるようになったのは、ごく最近のことである。それまでは、いわば形が人間に近い動物の一種のように見ていた。彼らと我々があまりに違いすぎているからである。しかし、彼らも人間として彼らの日常を生きている。自分を基準とする人間像からかけ離れた彼らに対しては、そんな当たり前のことも想像できずにいて、民族と称する別の生き物であると自然に考えていた。
これは本当に最たる例であるが、このように、自分の基準と違いすぎて本当の姿がつかめないことは、もっと微妙なことを含めるとよくあるのだろう。すると、ますます自分の基準というものが疑わしくなってくる。そして、それを築いてきた周辺環境や自分の経験といったものまで疑ってしまう。何か新しいことを学んだと同時に、決して得ることが出来なくなった視点があるのではないかと。怪しい宗教がはびこっていると騒いだりするが、自分自身だって余程怪しい。
こんな風に考えると臆病になって何も出来なくなるので、出来るだけあまり意識しないようにしている。しかしまたテレビでマサイ族を見ると、同じような苦々しい気持ちが蘇ってきて胸くそわるい。
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