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「嗅覚論」をとても興味深く読んだ。確かに言われてみれば、嗅覚に関して我々は乏しい表現方法しか持たないようだ。とはいえ、幾ばくかは独特な表現があるに違いない。そう思って脳内の語彙表を繰ってみたが、何も出てこない。気になってしょうがないから、『日本語大シソーラス』(山口翼著、大修館書店)を繰ってみたが、やはり何も出なかった。嗅覚表現には、本質的には「香る」と「臭う」の二種類しかないようである。つまり、プラスの嗅覚とマイナスの嗅覚である。あるいは快・不快と言い換えてもよい。しかし、その区別も今ではあいまいになって、「良いにおい」という使い方も普通である(ただし、「匂」という感じを使って「臭」と区別がなされることが多い)。
このように私なりの分析をしてみるものの、やはりなぜこれほどまでに嗅覚関係の語彙が少ないのか、という問いに直接答えることはできそうにない。そこで私は、思考の舵を「感覚に関することばの役割は何か」という問いへと切っていった。
結論からいえば、この場合ことばは「圧縮」あるいは「濃縮」の役割を果たしているのではないかと思う。目の前に美しい景色が広がっている。私はこの景色を一生忘れたくないと思う。その瞬間私の中では、意識的にしろ無意識的にしろ、景色の言語分節が実行される。陳腐で申し訳ないが、例えば「青い空」「白い雲」「赤い屋根」「緑の木々」といった具合である。紙切れに書きとめたり人に伝えたりすれば、この言語データは客観的な形で蓄積される。そしてそれを参照することによって、私はことばを脳内に再生し、続けて景色を「思い出す」ことができる。その景色を二度と見ることがなくとも、私は「思い出す」ことができる。
しかし嗅覚の場合は事情が違う。私はにおいに関する語彙をほとんど持っていない。これは嗅覚情報がことばによって「濃縮」されえないということを示している。したがって客観視できる形での蓄積は極めて困難であり、代替手段としてそれ以外の感覚にかこつけて言語記憶したとしても、どうしても「しっくりこない」。つまり、私は嗅覚の記憶をことばを介しては「思い出す」ことができないのだ。においのフラッシュバックが強烈であることは、この裏返しなのであろう。一度体験したにおいに再び遭遇したとき、濃縮されずに記憶の中を浮遊していた「においそのもの」が待ってましたとばかりに反応する。こうした一連のありさまをとらえることで、他の感覚がいかに「不当に」ことばと結びついているかということに、私は気づかされるのである。
以上は「嗅覚論」の下手くそな焼き直しに過ぎない。これを変奏曲と呼んでよいのかはなはだ疑問だが、嗅覚の不思議さについて考えるきっかけになった。新しい発見があったらぜひ教えていただきたいし、私自身も引き続き考えていきたいと思っている。