孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
カレンダー
05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
最新TB
ブログ内検索
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
私の読書量は本を携えて暇のある時には読み進める程度のもので、読書家というにはまったく程遠い。好きな作家は・・・?と問われて即答できるほど多くの本を読み込んでいるわけではない。実にお恥ずかしい限りだが。
しかし好きな雰囲気の本、というものはある。私は昔はスカッとする歴史小説を好んでいたが、今読んでいる本を(寝床に積み重ねている本たちを)眺めてみると、背伸びをした専門書・詩集・美容書など統一性がない。しかし、小説に限っていえば作者は様々だがそれらはどうも共通の雰囲気を持っている。私の好きな雰囲気というのはどうも色で表すと薄汚い茶色でどんよりした空気に包まれたものなのだ。その小説に出てくる建物は古びていて、主人公はいたって人間臭い(もしくはそれが行き過ぎて狂気と化している)、とくに大きな出来事が作中でおこるわけではない。ただじっくりと、のそのそと時間が流れていく話が多い。そして時々少しのエロスがある。しかし、それもまた無気力なエロスなのだ。
だから私の読書タイムはなんだか薄汚いしめったにおいが漂ってくる、あまり健康的なものではない。しかし、それが好きだ。
そういう世界に浸った後、ぱっと窓の外の夕焼けを見た瞬間は絶妙な気分だ。あぁ綺麗な現実だなぁ、とひしと感じるのだ。薄汚い世界はきっとすべてお話の中のことなのだ・・・なんとも馬鹿らしく卑屈な感覚だが、この現実世界と本の世界の行き来が幸せを感じる1つの手段なのだ。
PR
この記事にコメントする