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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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〈参〉『孝太郎』の半生

 

 

 『孝太郎』の歩みは20051111日の創刊に始まり、ちょうど1年間・計8回の雑誌刊行と、その後のオンライン上での活動という大枠で語ることができる。だが、もう少し細やかに振り返ってみると、『孝太郎』の3年余りの歴史は、さらに幾つかの時期に区切って考えることができると思う。

 

 ここで私は、『孝太郎』の半生を、黎明期・発展期・爛熟期・転換期・安定期・停滞期・衰退期の7つの期間に分割する。そして、それぞれの期間にどのような動きや変化があったのかを思い出し、現在へとつながる流れを確認したいと思う。

 

 〈黎明期〉は、創刊号と第2号が発刊された時期である。これら2つの号の編集は、実は私の手によって行われた。自宅にパソコンを持っていたので、編集長が編集作業を私に任せてくれたのである。

 

編集長から身近な友人にメールが配信され、『孝太郎』の存在が宣伝されるとともに、各種原稿の募集がなされた。幾人かが、この得体の知れない企画に心やさしくも応じてくれ、短歌が数首送られてきた。このおかげで、「孝太郎短歌賞」のコーナーは創刊号から存在することができたのである。

 

 寄せられた原稿は、私のもとに集められ、私は人生初の「編集作業」を行うことになった。パソコン音痴の私であったが、ワードの段組み機能などを駆使しながら、夜が更けるまで画面と格闘した。編集とは、単に原稿を並べて済むものではない。字がつまりすぎているのも困る。逆に不自然な余白があっても困る。コーナーごとのレイアウトが見にくくても困る。編集作業にかかわる様々な困難を私は身をもって知ることになった。

 

 紆余曲折を経て、私の手によってなんとか1号2号が世に出る運びとなったが、私はやはり器量不足であった。第3号からは、編集長が自ら編集作業を行うことになった。ここからが『孝太郎』の〈発展期〉である。タイトルの強調や段組みの操作など、編集長の編集センスは私のそれを遥かに凌駕し、以後『孝太郎』の誌面スタイルが変わることはなかった。第3号からは内容面でも充実し、本格的な文芸誌の様相を呈するようになった。「伴文庫」「意訳いい訳」など、編集長発案の多彩なコーナーが設けられ、反響を呼んだ。コーナーとは別に、小説や詩、評論等の投稿作品の数も増えた。その一方で、「孝太郎短歌賞」への投稿が減少し始め、今思えばそれは、〈終わりの始まり〉がそれとなく示唆されていた現象だったかもしれない。

 

 〈発展期〉は2006年の前半とちょうど重なる。ある程度の浮き沈みはあったにせよ、この半年間で我々は『孝太郎』の〈市場〉とも呼ぶべきものを開拓することに成功した。「『孝太郎』の新しい号が出た」と言うと「読みたいからちょうだい」という反応が返ってくるようになったのである。これは我々にとって至上の喜びであった。我々によって、あるいは我々の仲間によって綴られた文章が我々によって編まれ、それが我々の仲間によって読まれている。そういうシステムを達成したことに、私は衝撃にも似た感動を覚えたし、編集長もまたそうであったろう。

 

 『孝太郎』第6号には、私の稚拙な小説「桶狭間」が掲載された。今読み返してみると恥ずかしいばかりであるが、当時はそれなりに好評であったと伝え聞く。『孝太郎』に載るものとしては少し長めの小説であったので、第6号の誌面の4分の3弱をこの「桶狭間」が占めることとなった。そして第6号には、外部からの投稿作品が一つも掲載されなかった。『孝太郎』は運命の狭間をさまよいだしたのである。

 

 この消えかけた灯を復活させようと、「誌面文化祭」が計画され、実行に移された。この過程が〈爛熟期〉すなわち第7号および第8号である。この時期は「この話のつづきをつくってみよう!」と題された企画が『孝太郎』に活気を与えた。これまでの数々の企画同様に編集長の発案であり、〈お題〉である短い文章に続くようなストーリーを読者から募集する、というものであった。募集自体は第6号でかけられており、多数の投稿が得られたため、第7号はそれらの投稿作品と「孝太郎短歌賞」の拾遺編、および「誌面文化祭」の予告のみで構成された。

 

そして第8号。『孝太郎』史上最大の10ページからなる厚みのある冊子が世に出ることとなった。20061111日――『孝太郎』の誕生からちょうど一年の記念すべき日であった。評論・小説・詩・短歌の他に、「この話のつづきをつくってみよう!」の企画に対して活発な反応があり、実に4ページ余りを同企画が占めていた。作品発表の場であると同時にことばによる交流の場でもありたい。そうした理念のもと、ときに活発にときに細々と続いてきた『孝太郎』の営みは、ここに集大成を見た。そして第8号は、ある一点がいつもと大きく違っていた。毎回裏表紙に掲載されていた短い言葉と、発行年月日等を記載した奥付がなかったのである。『孝太郎』の活動は、第8号をもって当分の間休止される。真っ白な裏表紙はそのことを密かに暗示していたのだ。

 

 気がつけば秋も深まっていた。我々は受験生であった。我々はしばし、勉強漬けの世界へと身を移すこととなった。

 

 3月。受験結果は悲喜こもごもであった。編集長は合格。私は不合格となり、一年間の浪人を決意した。大学という学府の一員となれた者となれなかった者。その間にはある意味では圧倒的な格差が生じた。しかしその格差は『孝太郎』復活計画に関しては、まったく障害とはならなかった。できるだけ早く『孝太郎』の活動を再開し、積極的に参加しよう。私は端からそう思っていた。

 

 『孝太郎』の編集委員は、あるいは大学の新入生として、あるいは不機嫌な予備校生として、それぞれのスタートダッシュを切り、忙しい春を駆け抜けた。その間〈孝太郎〉は静かに待っていた。不安はあったに違いない。我々にも不安はあった。思い入れは強かったものの、それぞれの新生活があまりにもめまぐるしく、『孝太郎』の今後について話し合ったり、誌面を構成する原稿を執筆したりする時間がとれないのが実情であった。

 

 しかし、春すぎて夏が来たとき、編集長は動いた。7月下旬、編集長自宅にて『孝太郎』の編集会議が開かれた。そして文芸誌『孝太郎』はここから〈転換期〉に入る。編集会議で決定されたことは、一言で言えば〈オンライン化計画〉である。ウェブ上に『孝太郎』のホームページを立ち上げ、第9号以降の誌面はそこで公開する。第8号までの紙面版『孝太郎』のファイルもダウンロード可能な状態に置き、新たに読者となった人にもこれまでの経緯がわかるようにする。さらに、だれでも作品が投稿できるよう、メールのフォームも用意し、幅広く作品を募る。そうした詳細が決められていった。

 

そして、最大の変革点がブログ「デイリー孝太郎」の創設であった。4人の編集委員に3人の仲間を加えた7人のメンバーが代わる代わる、日々の生活で考えたこと、感動したことなどを800字程度で書き綴ってゆく。ルールはただそれだけであった。「天声人語みたいになればいいね。」そういう声が誰からともなく出たが、具体的にどういったコンセプトなのか、誰から誰へ伝えることばなのか、そして何よりも何のためにそれを書くのか、そういったことは全く決まっていなかった。

 

 2007年8月11日、オンライン版『孝太郎』が誕生した。ページ上には、「再開にあたって」と題された編集長の名の入った文章が第9号として掲載されるとともに、「デイリー孝太郎」にリンクが張られ、記事の連載が開始された。

 

 9月には待望の第10号がウェブ上で公開された。それは『孝太郎』の完全復活を告げているように思われた。そしてそれと並行して「デイリー」の連載も順調に進んだ。私に関して言えば、インプットばかりが続く浪人生活の中で、「デイリー孝太郎」の記事を週に一回書くことは貴重なアウトプットの機会であった。淡白な生活にリズム感を生み出してくれる仕事であった。ただ一点、何を誰に伝えたいのかが自分でも全く分からなかった。私は、書いて、それで終わり、という営みを2ヶ月間繰り返した。最もありきたりな意味で、楽しかった。

 

 7人のメンバーの中には、私を含めて浪人生が3人いた。年度が後期の半ばに差し掛かると、3人はそれぞれ、10月いっぱいで「デイリー」の執筆を休み、受験に備えることを決めた。編集長の人選により、離脱した3人の代わりに新しいメンバーが入り、「デイリー」の連載は滞りなく続いた。しかし雑誌本体の公開は第10号以来行われることがなく、『孝太郎』の主な活動は「デイリー」の連載へと絞られていった。下降線をたどりながらも我らが『孝太郎』は〈安定期〉を迎えた。

 

 そして翌年、2008年4月。前年11月より離脱していた3人のメンバーは、無事大学合格を果たした。私もこれ以上ないというくらいうれしかった。好きなことを好きなだけ学べる場にようやく到達し、感慨無量だった。『孝太郎』にもたくさん作品を送れるし、「デイリー孝太郎」の連載も思い切りできる。入学当初は実際そういうつもりだった。

 

 しかしなってみると大学生も相当忙しいもので、特に前期の慣れない間は語学の予習や各種レポートに追われ気味の生活となった。「デイリー」の執筆もなんとかこなしていたが、満足できる文章を載せたことは一度たりともなかった。他のメンバーにとっても、おそらく「デイリー」執筆は〈義務〉として重く感ぜられたことだろう。『孝太郎』の構成員が全員大学生になったものの、その勢いが盛り返されることはなく、〈停滞期〉と呼ぶにふさわしい空気が『孝太郎』全体を覆った。

 

 そして、200810月以降、「デイリー孝太郎」の執筆メンバーが、一抜けた、二抜けたと次々に離脱していった。編集長が自らカバーするなど必死に連載継続が図られたが、ブログのカレンダーは徐々に穴だらけになっていった。今、『孝太郎』は〈衰退期〉にあると言わざるを得ない。

 

 現状については次章に譲るが、私は離脱していったメンバーを責めるのは筋違いだと思っている。反省すべき点は、『孝太郎』を創り上げてきた我々と、つくり上げられてきた『孝太郎』という制度そのものの中にあるのではないだろうか。衰退を招いた原因を丁寧に考えることが、『孝太郎』真の復活の鍵を握ることになろう。

 

(革島秋遷)
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