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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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〉『孝太郎』の現状

 

 

 2007年9月の第10号公開以降、『孝太郎』の本業である文芸誌の刊行は行われていない。かれこれ1年半近く、『孝太郎』は「デイリー孝太郎」の連載を生命線として活動を続けてきた。現状を分析するにあたっても、したがって、「デイリー」のあり方を議論することとなる。

 

 ふつう、文章あるいは〈ことば〉というものは、“誰が誰に向かって何のために発するのか”ということが明らかなときはじめて意味をなす。背景のない〈ことば〉そのものが独立しうるのは、宗教の聖典でなければ超一流の文学の場合のみである。我々が日常的に扱う〈ことば〉には、必ず〈主体〉・〈対象〉・〈目的〉が付随する。

 

 ところが「デイリー孝太郎」は、形式上、聖書の類に入ってしまっていたのである。「デイリー」の記事は匿名である。したがって誰が書いているのか読む者にはわからない。つまり〈主体〉があいまいなのである。文章を公表する場合、〈対象〉はもっとも不明確になりやすい要素である。「デイリー」の場合、一応『孝太郎』の読者ということになっていると思うが、それがどういう人々なのかは正確にはわからない。ほとんどが同級生であると想定されるが、ネット上で公開しているため、そうでない読者もいるかもしれない。そして〈目的〉がいちばんはっきりしない。「なぜこれを書いているのか?」私も「デイリー孝太郎」執筆者の一員として、たびたびこの疑問を抱いた。

 

 こうして見ると、「デイリー孝太郎」は、性質的には「天声人語」に酷似している。筆者は匿名で、読者は不特定多数である。しかし、やはり〈目的〉の明確度をくらべれば、「デイリー」のほうが劣ってしまう。「天声人語」は朝日新聞の目標(おそらくニュースの伝達と世論の形成)を達成するための一翼を担っているはずである。筆者は朝日新聞の理念に則って(悪く言えば「縛られて」)あの261文字を埋めているに違いない。ところが「デイリー」にはそういった目標がまるでない。少なくともないように見える。その結果、今日に至るまで、それぞれの担当者の思惑が入り乱れた連載が、漫然と続くことになってしまったのである。

 

もちろん、企画を考案した編集長にはある程度のイメージなりプランなりがあったのだろう。しかし彼はそれを事細かに語ることをせず、私たちもそれをくみ取ることができなかったのだと思う。とても残念である。そこで、とりあえず私は、読者が誰であろうと、読んだ人がそれをきっかけに何かを考えてくれるようなもの、新しい視点を与える楽しいもの、というぐらいの目標を立てて記事を書いてきた。しかし、読んで楽しいものを書こうと思えば、まずは書く私が楽しんで書かなければならない。私の生活範囲はごく限られている。バスでの通学、大学での聴講・ゼミ、自宅での時間。おおよそその3つしか場面がない。読む本も堅苦しいものが多くなってきた。読んで楽しい話題を1週間に1度文章化するというのは、思いのほか至難の業なのである。ある程度の期間は楽しく書いていても、週に1度の連載が私の〈ノルマ〉〈義務〉であるような感じが、だんだんと増してくる。そうなると気分は重くなり、おのずと文章もぎごちなく稚拙なものになってしまうのである。

 

 私が見るに、「デイリー孝太郎」の5~7人の担当者は、週に1度の執筆に関してそれぞれに苦悩を抱え、さまざまな方法で乗り切ろうとしてきた。だがそれらの作戦の多くは、言葉は悪いが苦し紛れであり、『孝太郎』の精神とはおそらく合致しないものである。以下ではその一部を分析しようと思う。すでに述べたように、問題は「デイリー」のシステム自体にあるのだから、執筆者個人を攻撃することは避けるべきだと私は考えている。したがって、私が書いた記事以外は、すべて一般論として批判することとする。実際のところ、たいがいの〈苦し紛れ〉は私自身が通った道でもあるので、批判というよりむしろ自省という方が当っているかもしれない。

 

 まず、週に1度のペースが苦しくなってきた担当者は、〈シリーズもの〉で回避しようとする。これは、過去にさかのぼってみても現在の状況を見ても、一目瞭然の現象である。「デイリー孝太郎」では、記事の内容は全面的に担当者に任されている。各担当者は自分の曜日については完全に〈自由〉が与えられているのだ。しかし〈自由〉であることが悩みの種になるのは世の常で、悩んだ担当者は打開策としてシリーズを組み、執筆内容に制限を加えることで自由からの逃走を図るのである。

 

 もちろんシリーズと名の付くものすべてが悪いわけではない。シリーズ化することで発想の幅を自ら進んで狭め、「書き易さ」を求めているとしたら、それは『孝太郎』の理念に反するのではないかと言いたいのである。この「『孝太郎』から遠く離れて」も確かにシリーズものではあるが、これはひとつのまとまった文章を6回に分けて掲載しているだけなので、私がいま問題にしているところの〈シリーズもの〉とは性質を異にしていると思う。

 

 悪い〈シリーズもの〉の例としては、私がある時期に試みた「変奏曲」シリーズがまさに当てはまる。原稿締切日の毎週日曜日、私はまず、過去1週間分の「デイリー孝太郎」の記事を読む。もちろんすべて他人の作品である。その中で一番興味深いと感じたものをひとつ取り上げる。それが「○○」というタイトルの記事だったとすると、私のすることは、その文章の主題を別の角度でとらえたり私なりの解釈をつけたりして、“「○○」の主題による変奏曲”というタイトルで書きなおすことである。「○○」を参考にしていることは明言しているし、文体は完全に私の味付けになっているので、剽窃ではないのだが、どうしても手抜き感は否めない。一応それらしい言い訳はある。『孝太郎』の理念は、「双方向のことばの交流」である。したがって、「デイリー」の担当者同士が、互いの文章に影響を与えあうことも時には必要なのではないか、と。しかし、我が身を振り返ってみれば、そういう格好の良い信念よりも、「楽をしたい」という気持ちの方が強かった。調子に乗って数ヶ月このシリーズを続けたことで、『孝太郎』全体に漂う停滞感に拍車をかけてしまったような気がする。

 

 もうひとつ、私を含め、多くの担当者が実行してきた〈苦し紛れ〉が〈知識を書く〉ことである。これも、その行為自体が悪いわけではないが、「デイリー孝太郎」の記事としては適切とは言えないのではないかと思う。〈知識〉は主に大学の講義で得られたものである。例えば、私は1回生の前・後期を通じてラテン語の講義を受けていたが、そこでは淡々とした文法の解説の合間に、ラテン語やラテン文化に関する様々な雑学的知識を聞くことができた。そういったものを私は何度か「デイリー」の題材として使ったことがある。確かにそれは〈面白い〉話ではある。しかしそれは、ひとつの閉じた〈知識〉でしかなく、そこから考えの発展や新しい発想が生まれる余地はない。読者はそれを受容する以外、何もできないのである。私も他の担当者も、おそらく〈つなぎ〉という気持ちでこうした記事を提出していた。私などは、話題の在庫が乏しくなってくると、たびたび知識をひけらかした。ブログのカレンダーをただ埋めているに等しいような記事もあり、編集長には申し訳なく思っている。

 

 「双方向のことばのやりとり」――これが『孝太郎』の精神であるとするならば、「デイリー孝太郎」はそれをほとんど実現できていない。それどころか、少し厳しい言い方になるが、〈ことば〉に対して失礼なことをしてきたのではないかとさえ私には思われる。

 

「ことばのキャッチボール」という言い回しがよく使われるが、我々はこの意味をもう一度よく考えてみければならない。ひとまず簡単には〈双方向〉ということである。〈ことば〉は、特別な場合を除いては、発信者と受領者がいなくては成立しない。そしてその二者の役割は、常に入れ替わっていなければならない。〈ことば〉を受け取った者が次の瞬間発信者になって初めて、〈ことば〉は生きてくる。

 

さらに我々は、〈キャッチボール〉の性質に考察を加える必要がある。第一にキャッチボールでは、使われるボールはひとつである。したがって、〈ことば〉を伝え合う構造の基本は、

A:こんにちは。

B:こんにちは。

というやりとりにあるのである。ここには、Aが発信し、Bが受領し、Bが発信する、という3段階のプロセスが認められる。そして発信され受領される〈テーマ〉(〈ことば〉ではない)は基本的にひとつである。これは単なるオウム返しではない。オウム返しの場合は、「Bの受領」の段階が飛んでいる。〈ことば〉が生き生きと伝わるには、受け手が送り手の〈ことば〉をよく噛み砕き、テーマを理解することが必要なのである。

 

 第二に、キャッチボールでは、ボールを投げたら投げた人の手からはボールはなくなる。これはあまり言われていないことであるが、私は最近、〈ことば〉に関しても同じことが言えるのではないかと考えている。〈私〉がある〈ことば〉を発するとは、その〈ことば〉を〈私〉自身から抜き取って相手に投げることである。その瞬間、その〈ことば〉は〈私〉のものではなくなる。だが、相手がきちんとそれを受け取ってくれ、しかるべき応答をしてくれれば、すなわち投げ返してくれれば、〈私〉はその〈ことば〉を自分のものとしなおすことができる。ところが、相手がいないとき、相手が無視したときは、その〈ことば〉は遥か彼方へと飛んで行き、二度と〈私〉の手元へは帰ってこないのである。〈私〉はそこで、ひとつの〈ことば〉を喪失することになる。

 

 極言すれば、「デイリー孝太郎」は〈ことば〉の喪失を促進していたのではないかと私には思われるのである。目的も見えず、投げかける相手もぼんやりとかすみ、応答もほとんど得られない。そんな中で毎週記事を書き続けるのはたいへん辛いものである。〈ことば〉はどんどん奪われてゆき、気力も失われてしまう。今思えばそれは当然の結果であった。「天声人語」も確かに似たようなコンディションの中で百余年続いてきた。しかし彼らはプロである。我々はプロではないのだから。

 

 〈ことば〉がそれ自体で威力を発揮することはめったにない。なによりもそれを取り巻く環境、すなわち送り手と受け手と目的の存在が必須である。それらを欠いてしまった〈ことば〉の体系がどのような運命をたどるのか。「デイリー孝太郎」は、我々によき教訓を残してくれたのではないだろうか。

 

(革島秋遷)
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