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私の冬休みは今日で終わりである。1月下旬には試験があるので、その勉強やら、山積した課題を片付けるやらで、高校時代よりもがんばっていた気がする。
その課題(期末レポートという)のうちのひとつ、英語の課題をやろうとしたとき、高一のときに研修旅行でニュージーランドへ行ったのを思い出した。というのも、その課題が、英語の広告を選んでそれについて特徴を述べ、消費者への効果を分析し…というものであったからだ。私はニュージーランドから新聞を(結構たくさん)持ち帰っていたので、それが使えるな、とピンときたわけである。
しかし、ガサゴソとその新聞を探したが、出てきたのは一部だけだった。向こうにいるときは、新聞からその土地の文化がわかりそうだ、というか単純に面白そうだ、と思って友達に頼んでまでして新聞を手にいれカバンにいれたのだが、帰ってくるともうそれは邪魔でしかなくなってしまって、そして大部分は捨ててしまったのだろう(何でも取って置きたがる自分の性格のおかげで一部でも残っていて、助かった)。本当に、何があるかわからないものである。
ところで、新聞を探したということはすなわち上の研修旅行関連のモノをたくさん目にしたということだが、そうなると、ノスタルジーのような、切ない感情が湧きあがってくる。いつもならそのモノをじっくり眺め始めて、探し物はどこへやらで、だんだん無気力になってきたりするのだが、今日はふと、こういうときにでてくる感情というのは、劣等感のようなものと言える場合があるなと思った。(そしてレポートも書かなくちゃならなかったので急いで探しものに戻った)。
過去(の自分?)に対する劣等感。これは、今の自分と昔の自分を重ね合わせてしまうことから生じる。重ね合わせるというのは単に今の自分が昔の自分を見て比べるというのでなくて、今の自分が昔の自分に入り込んで、それを見ている感じ。「できること」はおそらく現在の方が多い。それなのに、それだから、過去に劣等感を抱く。上の新聞の例でいえば、私はいまそれを有効に使うことが「できる」ために、捨ててしまったことに対してどうしようもない気持ちになるのと似ているだろうか。知識のみならず情感も豊かになってからその「過去」を見ると、当時とは違った景色が私の前に広がって、あの感情を引き起こすのだ。単に、「楽しかったあのとき」を見て、懐かしいなぁと思うのとは違って(そういう場合もあるけど。というか過去には今の自分が絶対影響していると言っていいと思うので、これは程度の問題かもしれない)、「あのときは楽しかったなぁ」なのだ。(感覚的すぎる表現で自分でもよくわからないが)。
新年早々自分でも意味のわからない文をだらだら書いてしまった。これも正月ボケの一種ということで許してもらいたい。