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 「あなたはプラトンという思想家を知っていますか?」

有名な人物ですから多くの人は知っていると答えるでしょう。「それではそのプラトンという思想家は一体どういう人ですか?」―こう問われると人は、彼の思想内容や歴史的背景を説明したり、『ソクラテスの弁明』や『国家』などの彼の代表的著作を挙げたりして、プラトンについて「知っている」ことを並べ立てます。そこで最後の質問です。「あなたはプラトンの存在を信じていますか?」

 人は困惑の表情を見せます。「プラトン」の部分に「神」や「霊魂」だとかいった単語の入った質問ならよく耳にしますが、プラトンなんて信じるとか信じないとかそういう対象ではない。でも先ほどプラトンについてあれこれ蘊蓄をたれてしまった手前、信じていないとも言えない。ここでひとつ我々がプラトンの存在を信じていることを示してみましょう。

 我々がプラトンを信じるためには、プラトンという人が居たことを我々に直接証言した者たちを信じなければなりません。代表的なメディアは歴史の教科書でしょう。我々は歴史の教科書を信じることで、プラトンの存在を信じます。そして歴史の教科書を信じるためには、それを書いた何処かの偉い先生を信じなければなりません。さらに、その偉い先生を信じるためには、先生が依拠しておられる歴史学の体系を信じなければなりません。歴史学の体系を信用するためには、その歴史学の方法を信用しなければなりません!

 しかしながら、私たちはそんなに遠い手続きを経てまでプラトンの存在を信じなければならないのでしょうか。プラトンがいようがいまいが我々の生活には何の関わりもないというのに!ここまで考えが至ったとき、私には科学(人文科学含む)という装置が、我々の「信じる」という行為を代行しているような、擬人的なイメージが浮かびます。我々は科学を「知る」ことで、世界に関する事柄を「信じ」なくてもすむようにさせられているのです。よって、科学によって証明され得ない「神」や「霊魂」に対してだけ「信じる」という動詞が使われるのです。

 しかしながら、近頃の情報化によって、科学までもが「信じる」対象になっている印象が私にはあります。情報が溢れかえることで本物の科学と贋物の科学とを見分ける必要が出てくるのです。

科学革命以来の近代人が情報を適切に扱うためには「信じる」という行為の作用をもう一度見直してみてもよいのではないかと、一人の文系学生は妄言を吐くのでありました。

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