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先日読んだ「日本語の本質」なる司馬遼太郎氏の対談集に、「愛しているよ。」や「感謝いたします。」という言葉遣いは非常に抽象的で自分の状態を客観的に説明していて、変な感じを受ける。とあった。これはフォーマルな文語であり、こういった公的言語が方言などの私的言語に干渉してきている・・・・・・と本文は続いてゆく。
確かに標準語は感情表現が難しい、大変ものものしくなる。(ここで言う標準語は、関東弁ではなく明治に国家が統一言語として定めたものを言う)もちろんこれは標準語がいけないというのではなく、論理的な言語を目指して作られたものだから当然のことだ。
あなたが将来研究者になって「~が分かってん。」と論文発表はしないだろう。しかしもしかすると、恋人に対して「愛しているよ。」とは言うかもしれない。だが、それは少し違う。あなたが恋人を愛していることは明白になっても感情は伝わるだろうか。ある人の言葉を借りると、純情な感情は1/3も伝わらないというわけだ(笑)。もっと適切な私的言語があるのではないか。ここではあなたが育ってきた土地・環境の、そしてあなたらしい言葉で「愛しているよ。」を変換しなければならない。ベタベタ方言でという訳ではないが、やはり感情表現にはその人の人生に裏打ちされた「自分の言葉」が出てくるのが理想だ。その言葉で人に気持を伝えたい。公的言語と私的言語の両方を遣いこなせる豊かな人間になりたい。
私はそんなことを考えながら市バスを降りた。その時運転手さんが、第三者的な「感謝します。」ではなく「おおきに。」と言ってくれた。そしてその笑顔もやはり「おおきに。」に相応しい笑顔だった。ああ、素敵だなぁ。なんだかとてもいとおしくなった。