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池田晶子氏の文章「あたりまえなことばかり」に冒頭から出てくる一節に「言葉は命である」というものがあります。高校生でこれを読み,それを思って生活する中で自分の中で何か信念というか,目標というか,そういうものになっている一節です。
氏は死刑未決囚との公開往復書簡をテーマにこれを語ります。また,ホスピスにお務めの友人を指しても示します。
「死の床にある人,絶望のそこにある人を救うことができるのは,医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて,言葉である」
「状況が動く限り,言葉は動く。生きている限り,言葉は必ず動いているのである。」
そして氏は,「だからこそ,会って語る,あるいは語らなくても共に居るということが,共に歩むことにおいていかに不可欠のファクターであるか,私は痛感した」と続けます。つまりは人との間で生きること全てに関わるものです。この次元の理解にまで私は簡単にはたどりつけていませんが,「状況が…」の部分までは何とか追いついていると思います。
このデイリー孝太郎は,一見すればどこぞの馬の骨とも知れない人間が日常のことを針小棒大に書きなぐったもの,と見えないでもありません。それゆえ義務感であるとか,方向性の無さであるとか,表面のきめの粗さが指摘されるときもあるのでしょう。
しかし,少数とはいえ人が言葉を連ねた文章,それが修正を加えられることも無く掲示されることについては,崇高な…と言えば大袈裟でしょうか,理想を感じます。
個人が日記のように文章を書くブログと違うのは,ブログはその継続,些細な日常の積み重ねに筆者の生活を感じるのに対し,この文章は連続させてもあくまで「連載終了」まで,基本的には一話完結でその人の考えを示します。文筆家でもない人々がそのように自己の言葉を凝縮させたら,そりゃあ問題もいろいろと発生するであろうにも関わらず,果敢に挑んで…いる人もいる(腰砕け)ことについて,注目したいのです。
事柄は言葉で語らざるをえません。その時にどんな言葉を選ぶのか。それがその人の人格を示すものであり,そして人格になることは「人の子の最大の幸福」(ゲーテ)となります。 今はまだデイリー筆者の人格どおしがふらふらと葛藤している感じかもしれませんが,ここからだけでも言葉の力がうっすらと浮かび上がるのではないかと思っています。
さあ,取り止めがなくなってきたところで…こういうわけですから,大元の「孝太郎」の文章のほうに,きめが粗くとも,一つ「一話完結」なものを投稿してみてはいかがでしょうか,と宣伝して終わっておきます。言いたいのはきっと3段落。まだ私も修行が足りないのでしょうね。