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中学校から(正確には習い事で小6からだが)英語を学び始めてはや8年にもなり、ネイティブスピーカーとちゃんと話せるとまではとても言えないが、片言のコミュニケーションはできるようになったし、実際に外国で会話のやり取りをしたりもしたが、それでも英語がごく日常的に用いられる世界があるのだとは未だに信じられないものがある。外国人を見るとそれが我々と同じ人間だと思うこともできない。
彼らが何気なく話していることが、我々が何気なく話す下らない内容のものだと思うこともできない。
それは多分私が、外国人と身近な立場で交流したことがないからであろう。私の知る外国人はテレビで観た者に過ぎなかったり、実際に会った場合でも、社会人として、或いは教師として、つまり自分を立場の下の者として接してくる者であり、 その人の社会的な身分を抜きにした姿が見えるケースがなかったのである。異国との壁を乗り越える良いきっかけを未だに持っていないということになるのだろうか。
こんな私でも外国人とうまく話をすることができた時は非常に嬉しくなるが、それは英語というツールをうまく使うことが出来たという技術への喜びのような面があり、相手と交流できた、という喜びではないことになる。例えば英字新聞の内容が分かったというだけでも、話せたことと同じ質の喜びが得られてしまう。もしかすると学力的に培った英語力を試したいという気持ちの方が、異国の人と交流したいという気持ちに勝ってしまっているのかもしれない。
長々と英語を学んできたが、調子良くいけばそれも今年度で終わりとなる。そんな時なのに外国人に対し上述の思いを持っているのはけしからんと反省し、意識的に勉強し直さねばと思いつつも、どの先生なら楽に通るだろうかと考えてしまうあたりどうしようもないものだと悩んでいる。