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明治時代の教育の始まりは西洋のカリキュラムをそのまま用いたため,「檸檬色」のような子どもはおろか先生まで実感が伴わない,つまり生活とはかけ離れた内容が頻出していたそうです。もちろんその字は書けるようになりますが,だからといって檸檬も檸檬色も実際は分からないわけです。
バイトで塾講師をしていると,教え子たちの知らない言葉の多さに驚くことがしばしばあります。ある中学生に国語を教えた際ですが,熟語の読みを扱う中で「忌引」「厄年」「盆」(ずいぶん抹香臭い言葉ばかりですいません),その他「名残」「悲哀」などが“全く初めて見る単語”として意味を尋ねられたのでした。抹香臭いシリーズはその文化に触れているか否かですけれども,「悲」「哀」の言葉を組み合わせた「悲哀」などは想像くらいしてよ,と言う感じでした。
彼にしたら,江戸時代から明治時代への移行期に「檸檬」が分からなかった人々と同様,生活の中にそれらの言葉は組み込まれていないわけです。たとえ漢字そのものから類推できるものであっても,その思考の枝は伸びてはいかない。
単に読み方の問題や書き方の問題の中でいきなり上記のような言葉を脈絡も示さずに持ってくる教科書にも罪はあるように思います。しかし彼は,彼が触れてこなかった身近な言葉の世界には全く疎遠なわけで,なんだかもったいないなと感じました。かく言う私も修行中の身,もったいない思いをずっとしていることでしょうが。
自分の知らない言葉を身に付けていくことは一生続く修練の一つと考えています。思考の枝を伸ばしていくには言葉を得続けないといけない。新語,流行語の類をより獲得していくものと並行してこういった素養も補強していきたいと改めて感じました。
檸檬が分からなかった人々も,そういった新しい言葉を獲得していくことと,同時にそれらの使用をそれまでの言葉の中に組み込んだことで知恵を作ってきたわけです。