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ある日の夕方、私は一日の疲れの中にまどろみながら、電車に揺られていた。
ふいに、私の向かいに座っていた小さな男の子が声を上げ、私の背後を指差した。私は思わず振りかえった。そこには、静かに、しかし威厳をたたえて山際に沈みゆく、大きな太陽があった。男の子はとなりにいた父親をトントンとたたいて言った。
「ねえ、あの山のところにいる人たち、とってもまぶしいだろうね。」
そんな息子に父親は教えた。
「太陽はね、あすこの山よりももっと遠いところにあるから、あすこにいる人も僕らと同じように見えてるんだよ。」
私は何だかがっかりした。父親は確かに正しいことを教えたけれど、「お日さまが沈む場所にいる人々」に対する男の子の素直な同情は、無情にも摘み取られてしまった。幼いころにはどの子も持っているはずの「詩人性」はこうして失われていくのだろうか。
しかし、そもそも、どうして私は「父親は正しいことを教えた」と思ったのだろう。山の向こうがどうなっているか、実際に「行って見てきた」わけではないのだから、父親にも男の子にも、そしてむろん私にも文字通り「本当のこと」は分からない。その意味では、男の子も父親も「想像」でものを言ったに過ぎないのだ。男の子が見たものだけを根拠に「想像」したのに対して、父親は知識や経験を根拠に「想像」した。違いはそこだけである。
知識や経験を根拠に想像すること。これは私たちが普段から無意識のうちに行っていることである。太陽系の仕組みについての知識や、山の上から夕日を見た経験があるから、私は父親の発言を正しいと思った。見えないものを見る力。人間の想像力のなせる業である。
想像力を持つことは素晴らしいことに違いはない。しかし、あまりに豊富な知識や経験に邪魔されて、本当は目の前で見えているものを見失ってはいないだろうか。我々から知識と経験を取り除けば何が残るのか。それは「いま見えているもの」に他ならない。まさに、「お日さまの沈むところの人たちはまぶしいだろう」と言った男の子の感覚そのものである。彼にとっては、太陽は文字通り山に沈むのであって、山にいる人がまぶしいだろうというのはきわめて純粋な想像ではないか。この純粋さを我々は忘れてしまってはいないだろうか。知識や経験に頼る前に、まず目の前にあるものをしっかり見よう。自分にはいったい何が見えているのか、確かめ直してみよう。結果的にそれが錯覚だったとしても、決して踏み外してはならない大切な手順である。
そう考えている間に、電車は駅に滑り込んだ。真っ赤な太陽は、コンクリートの壁に隠れて見えなくなってしまった。
「なくなっちゃった……。」
寂しそうに男の子が言った。