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「人類」というのは個人を指すのでなくて、人の全体を一括して言う訳だが、この「全体」というところに問題があるのか、どうも人類と言われても自分とは関係のない集合のように思われることがある。
これは人類という言葉を、未来や過去の人間のなしてきた若しくはなすであろう事柄について(どこか“ショー的”に)語られるときにしばしば聞くからであるのからなのかな?それか、あるいは…
先週の記事と似たことを言えば、人類の犯してきた過ちについて、「それは自分のせいじゃないもの、あとのことも人類にまかせた!」みたいなふうにして余所事にしたいとかそういうのが無意識にはたらくのだろうか?ともすればいま現在の…
数日前のテレビ番組中、海岸を歩くリポーターが砂浜にころがっている汚物(?)をひろいあげて「科学的な臭いがします」といって悲しげな顔をし、スタジオでその映像をみるコメンテータや司会の男らもまたその「汚染」に対して顔をしかめている様子をしていたけれど、やっぱりその顔が「ひどいですね、人類。なんとかせねばなりませんね、人類は」みたいな偽善のようなふるまいに見えて(“テレビ的に”そうすべきなのだろうけど)、腹立たしくはないのだけれど、なんだか腑抜けな感じがした。
今思えば「科学的な臭い」というのは(自分の中では単に「化学薬品みたいなにおい」と言いたかったのだろうと思うが)「こうして海が、ひいては地球が汚れていることの背後には科学の発展というのがあるんですよね」という意味を含んでいたのかもしれない。とするとやはり…
考えごとの内容にもブームみたいなのがあって、いろんなことをごちゃごちゃと、そしてときには上のようにまともに言語化できないレベルでふわふわと考えていると、気づけばすべてテーマが同じにできることが多い。(この文章は多分に矛盾をはらんでいる!)
今日でもう9月は終わり、私の場合、明日から後期がはじまる。この2か月とはうってかわって、授業とともにさまざまなことがはじまってゆくことになりまた忙しくなるのだが、なんだかんだ考える時間はやはりどうにもなくせそうにないなぁ、と思う。できれば友達と話をしたりしてみたいが、「自分の思うこと」という程までに深く考えていないところがなさけなくてはずかしくてどうしても殻にこもってしまう。この文章自体言い訳の塊のようだ。復習するためには予習あるいは授業をちゃんとやることが必要なように、他人からの批判を反省に変えるためには、自分の方も同時に(「まずは」ではなくて)準備しているのでなくてはならない。