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自分以外の人間が、自分の見えないところで通謀していて、何かしらを謀り、自分の一挙手一投足を見てはせせら笑っているのではないか。そういった感覚に襲われることが小さいことからよくあった。この妄念のタチの悪いところは、そんなことはあり得ないと言い切ることが全くできないところであり、例えば誰かを捉まえて「貴方は私を謀っていますか」と訊いてみたとしても、論理的に答えはノーでしかありえないわけで(「私は嘘つきである」という発言はそれだけで矛盾を生じる)、何の気休めにもならない。今でも、この考えが完全にバカバカしいとは思わないし、思えない。
それでは、奴らは私の知らない何を知っているのであろうか。例えば、「人類というのは実は地球生まれではなくて火星由来なのだけれども、何らかの理由があってそれを私に教えてはならず、歴史などという壮大な嘘の体系をでっち上げて私に教えている」のかも知れぬし、「この世に色というものがなくて、私は何らかの異変でそれを感じとっているけれども、周りの人間は無理に林檎を赤いと言い空を青いと言うことで、私がそれに気付かぬようにしている」のかも知れぬ。上述の如く、これらの可能性は完全に反証することができない。
こうして色々な可能性に思いを巡らしていると、この妄念は私の哲学的思考を促すのにそれなりに役に立っていることがわかる。例えば、自分が色を知覚しているということについて客観的に観じた経験があればこそ、クオリア等の哲学的で難解な概念も分かりよいものとなっている。
しかしながら、やはり気がかりなことは、私以外の人間がみな私を謀っているとすると、この稿は酷く滑稽なものとなってしまうということだ。これを読むあなたは、私の想像を遙かに超える秘密を隠してやはりせせら笑っているのであろうか。読者が自分の敵か味方かを分からないまま文章を書くのはひどく不安であるが、こちらも匿名で書いているのだからこれはこれで平等なのかも知れない。(いやしかし、私が匿名だと思わされているだけであって、奴らには全てお見通しなのかも知れない)