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月が変わった。毎年10月になると思い出されるのが、『徒然草』の「神無月のころ」で始まる段である。
神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。
このくだりを頭の中でめぐらす度に、ちらちらと気になっていたことがひとつある。「栗栖野とはどこなのか」という疑問である。兼好は京都の人間だから、きっと栗栖野も京都の地名には違いないけれど、今も残っているのかしら。なぜかいつも以上に心に引っかかる。広辞苑で調べてみると、山科区の地名だということだ。私は居ても立ってもいられなくなった。
京都市営地下鉄東西線の椥辻駅から地上に出ると、すぐそこに山科区役所がある。正面に大きな碑が建っていて、「郷土唱歌/山科」の歌詞が長々と刻んであった。その九番の歌詞を読んで、私は思わず小さく声を上げた。
「南へ行けば栗栖野の/墓は桓武の大御代に/東のえびすを平らげて/いさをヽたてし田村麻呂」
栗栖野という地名がはっきりと記されているばかりか、なんでもここは坂上田村麻呂ゆかりの場所らしいということが分かる。私は意気揚々と散策を開始した。
区役所前の新十条通りは、交通量も多く埃っぽい大通りだ。『徒然草』の面影はどこにもない。ただ、非常に起伏が激しいのが歩いていても分かり、なるほどここは「山科」だと実感された。
しばらく西に歩くと、私の当初の目的はあっけなく達成された。「栗栖野」というバスの停留所、栗栖野の名を冠した看板やポスターの数々……。あまりに何気ない出会いだったが、私にはやはり感慨があった。『徒然草』に書かれた地名が現存するということよりも、兼好が通ったであろう場所に今自分が立っているということに対してである。
ほっと一息ついて遠くを見渡してみると、東も西も山である。兼好はこの栗栖野を過ぎて、どちらの方角に向かったのであろうか。両方向に歩いてみたかったが、日暮れが近づいてきたので、来た道を引き返しがてら東へ向かうことにした。その前に田村麻呂の墓を訪れたのだが、その話は来週にまわすことにする。
新十条通りは、区役所前で外環状線と交わり途絶えている。そこからさらに東進すると、あたりは急に静かになった。まさに閑静な住宅街である。自分の靴音が気になるほどだ。山はもう目の前に迫っている。あと五分も歩けばふもとに到達できそうだった。私の胸は高鳴った。
しかし、暮れゆく町の風景の中を歩きながら、だんだん私は物寂しい気持ちになってきた。細く曲がりくねった路地に、夕飯支度をする家々の明かりが漏れてくる。びわの木のある曲がり角を曲がったとき、若い女の人が赤ん坊によちよち歩きの練習をさせているのを見かけた。彼女は私の姿を見ると不審そうに目を伏せ、私から守るように幼い息子を抱き上げた。私は何かしら後悔のようなものを感じ、軽く会釈をすると、椥辻駅へと踵を返したのだった。「もっとも根源的で敏感な私生活の場に、好奇心という軽率な動機で以って侵入し、申し訳ありません。」そう心の中でつぶやいた。